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小さな成功体験は難しい

私には保育園に通っていた頃の記憶が断片的に残っているし、小学生のときの記憶もかなりの鮮明さで残されている。自我の成長が自分の中だけで早く、家の外では一切誰かと話すことができなかった(場面緘黙症)ために、対外的な経験から獲得されるべき部分では自我の成長が遅れていた。それだから、周りから不当な扱いを受けてしまうことが多くなっていた。

主に上述の理由だが、他にもさまざまな要因が複合的に作用して、私は物心ついた頃から自尊感情が低かったので、それがデフォルトであり、何か挑戦しようとしても恐ろしくなって病的な不安にかられ、本来の力を発揮できないことが殆どだった。それでも平均より優れたパフォーマンスを上げられることも多いものだから、元々の能力は恵まれた方だったのだろうと醜くも自負している。

最近、私はひょんなことから短期バイトを始めるに至った。5月までの短期間である。このアルバイト、チラシを配るものなのだがそれだけではなく、道行く人にその施設の無料体験会の来場を約束させることまでが業務であり、かなり高度なコミュ力を求められる。ほとんど断られるのはわかった上で、宝探しをするようなものだ。この仕事は私には全く向いていないと思って心配だった。しかし、やり始めるとこれが楽しい。そっけない人、愛想がいい人いろいろいる。愛想が良くても断る人が大半だ。それでも、めげずにやることができるようになった。断られているのは私という人間じゃない。今の私はいつもの私ではなく、「アルバイター」という別人格……と思ってやるようにしている。

私は自尊心を保つために「成功体験」を積むことが大事だとよく聞いてきた。それは私にとって嫌だったし納得ができなかった。成功体験に至るまでのハードルが高すぎるように思え、それができたらここまで自己肯定感がない人間にはなっていないよ、と冷笑的だった。だが事実、このアルバイトで私は小さな成功体験をたくさんしている。それだけでなく最近はいろいろな場面で、小さな成功体験を重ねることを意識している。簡単なことではなかった。小さな成功体験でさえ、大きな勇気が必要だった。子供の頃、外で「はい」と言うのすら心臓がバクバクして辛かった。その私には、見知らぬ人に話しかけてビラを渡し、無料体験会の説明をするなんて言うのは何ステップも飛び越えた大仕事なのだ。

小さな成功体験に大きな勇気。普通の人は簡単にやってのけることで、私には何十倍もの重圧がかかる。これは大きなハンディキャップだろう。だが私は、これからの人生で「自己実現欲求」の発達段階に至るために、この挑戦を続けていきたい。私はいまだ承認欲求を求める未熟な小人間だ。私は立派な大人になりたい。いずれ自分が子供を持ったとき、子供にとって自慢できる、少なくとも卑下の理由にはならない母でありたいのだ。もちろんこの挑戦を続ける一番の理由は、人生の保持者である自分のためでなければならない。

メンヘラ女の戯言

たわごと、ざれごと、どっちも同じ字を書くんですね。これから書いて、眠れない夜に悶々と考えたことを記録するのです。読むのは時間の無駄かも知れませんよ。

私は眠れない時に延々と独り言をすることがある。今もそれをやっていた。話しているうちに、書き留めておくだけの価値があるのかも知れないと思った。

私は幸せではない。幸せを、幸せであると素直に認識できる人が幸せであり、幸せなのに幸せを受容できずにいる人は全き不幸としか言いようがないと私は思うからだ。私は彼氏がおり、大変愛していると宣言できる。しかしその彼氏を愛している私自身のことを、私は愛しているだろうか?答えは、全く愛していない、となる。むしろ憎悪しているとも言える。私は私にまつわる全てを愛することができない。私が私と不可分であると認めたものに関しては、憎悪の対象となる。例外は、ちゅうというピカチュウのぬいぐるみと、彼氏くらいである(そもそもこれらを不可分であると考えること自体が病的な可能性もある)。反面家族は、不可分と認識しているがために、卑下の対象であり、どうしても愛することはできないでいる。これは私があまりまともではない家族に囲まれていたせいかもしれない。私の家族成員には愛すべき人々が揃っているのだが、それぞれに難点があり……まぁご愛嬌の範囲だと思うが、病的に敏感な私には深い禍根を残す結果となった。残念ながら。

それで、私は眠れない夜に、私はなんと不幸なのか?ということに思いを巡らせた。幸福とか、不幸だとかいうのは本来は神様がお決めになることなので、人間風情が決して良い問題ではない。それは傲慢というのだ。

しかし、私はどうしても、この彼氏にいくら大事にされたとしても自分が幸せであると思えないことの理由を突き止めて、手放しでこの幸せを噛み締め喜ぶことができるようになりたいと思った。だから、まずはこの、大事にしてくれる人間のできた彼氏がいるのに幸せを感じられない不幸な状態を把握する必要があった。

私は少々自己肥大がすぎるようだ。何を考える時も、「自分」基準でものを考える傾向がある。自分だったらどう感じるのだろうか?自分もそういう経験があるだろうか?など、とにかく自分中心の考えが私は多い。

ただ無心に、彼氏のことだけを考えているうちはいい。幸せだ、彼氏が好きだと考えてニヤニヤするまである。しかし、「自分」という存在を隣に置いて比べてみるとたちまち2人は釣り合わないとか、私は劣っているので、一緒になっていいような人間ではない……などという自己否定に走り出し、しまいには「彼氏と出会わなければこんな気持ちにはならなかった」「彼氏の存在を忘れられたらどんなに楽だろう」などと考えてしまう。

つまり、彼氏との関係において「自分」をあまり意識しすぎないほうがいい。さらにいうと生活のあらゆる局面で、できるだけ「自分」というファクターを排除したほうがいいのではないか?ということに気がついたのである。わかりやすくいうと、「自意識過剰」なのである。これを行き過ぎた自己肥大、などと表現しているにすぎない。

みんな私ほど、人生において「私」について考えないだろう。子供なのか哲学者なのかよく分からないが、褒められた特質ではない。

太宰治氏。高野悦子氏。私に影響を与えている文筆家だが、ともに肥大した自己を持て余して、自殺した。このままいくとますます私はどん詰まりに追い詰められ、「ジサツ」のコースへ入ってしまう。それは回避すべきことだ。

ということを、眠れない夜に考えるからますます安眠が遠退く。


自分のキモさにうつ

改めて昨夜に書いた記事を振り返ってみると、あまりにも厨二じみていて気持ち悪いので自己嫌悪に陥っている。だが、敢えて消さないことにした。今回の投稿で免罪符としようと思うからだ。

私はやっぱり結婚を望むべく人間ではないと思う。恥ずかしい人間なので、1人で生きて1人で朽ちるのがお似合いなのだ。下賤な民であるし、中身のない厨二で自分の学問への熱意の低下を御託を並べて擁護し、そんなのでよくあんな優秀な彼氏がいて恥ずかしくないな。

死んでしまえ。

依存の現状

私は依存体質の人で、現在進行形で彼氏にこれでもかと依存している。本心はというと、私は依存などしたくない。高校時代に友達に依存して拒絶された苦い経験が重なって、彼氏が私に少しでも呆れ口調になったり嫌がられたと感じたりすると、その記憶がフラッシュバックする。私は彼氏の時間を拘束している自覚がある。だが、同時に私は自分の時間をダメにし、自分自身の精神も追い込んでしまっている。このままではいけないと思う。

みんなが一般的にいう好きだという気持ちとは少し違っているようだ。好きとかそういう健全な想いではなく、私の彼氏への感情はもっと情念めいたおぞましいもので、筆舌に尽くしがたい。私は同じ心理状態を高校時代に経験した。以前も書いたが、相手の対応の違いだけで救われているようなものだ。私は結局まるで成長がなかったという訳なのだ。

具体的にその心理状態というのは、以下のようである。私は基本的に、彼氏と一緒にいるのが嬉しいはずである。だが同時に苦痛でもある。自分の脳が溶けていくような、ダメになるような感じがする。誰しも恋愛をすると、相手の前では多少なりとも子供帰りするものだ。しかし私の場合は度が過ぎている。普段の自分の精神年齢との振れ幅が大きすぎるのだ。私の中で腑に落ちる表現で例えるならば、「魚は水がないと生きていけない。ある日偶然に入れられた水槽の水は依存性のある毒素を含んでいて、魚はそれ以外の種類の水に入ることがもはや不可能になった。魚は水の入れ替えのために別の水に入れられたが、あの水の中でないとどうも楽しくない。しかしその愛しい水の中に四六時中いられるわけでもない。次にその水に入れられたとき、ますます依存度が高まっていて嬉しそうに泳ぎ回り、次の水の入れ替えを拒否する。しかし飼い主は暴れる魚をむんずと掴むと、無理矢理に毒素のない水に入れた。そのうちに暴れる魚と格闘してまで水を変えるのを億劫になった飼い主は水を入れ替えるのをやめてしまった。汚れていく水とその毒素がじわじわ魚の体を蝕み、ついに魚は死んだ」。この場合、魚は私であり、彼氏とは水(と、水を入れ替える責務を負う飼い主)ということになる。なんてまどろっこしい説明だろう。しかしこの依存状態を例えるとこのような感じである。最後に死ぬのはなぜかというと、このままだと頭がおかしくなって、自死も辞さないような状況になると思うからだ。さらに、飼い主の水の入れ替えを拒否するという要素は、彼氏が私に愛想を尽かすということを予期している。

この魚をかわいそうだと思う人はいるだろう。そしてこの飼い主は、こんな毒素のある水を与えているが、それには罪がない。この水はどうも魚にいいもののようだから……と、良かれと思ってやっている。運命は私たちを引き逢わせ、彼氏は私を大事にしている。しかし魚が暴れると、それが度を過ぎれば、いくら気の長い飼い主だろうがノイローゼになる。

死ぬような成分を含んでいなければ、どの水でも良かったのだ。それなのにこの魚は、あの優しい毒気のある水でないと受け付けないようになった。どの人間が相手でも楽しく時を過ごせるはずなのだ。それなのに私は、この人でないと楽しくないのだ。いや、他の人といても楽しいことは楽しい。刹那的に楽しくても、それが終わったら空虚な気持ちになるのだ。では、彼氏と一緒にいれば満たされるのか?答えは、満たされないのである。

だから四六時中、永遠に彼氏とともにいないと息ができないのである。彼氏がそばにいなかろうと、考えるのはだいたいそのことばかりになるのだ。

こうなると日常生活が覚束なくなる。他の予定を入れまくって、彼氏と過ごせない寂しさを紛らわそうとする。そうすると本来自分がやらなければならない学業が疎かになるのは明らかだ。これ以上修士課程の在籍期間を延ばすわけにいかず、来年度には片付けなければならないというのに。学業への情熱はいま、ほとんど失われてしまっている。彼氏への興味に取って代わられてしまった。私は研究対象と自己探求を重ね合わせてきた。私はなんなのか、という問いと、何々はどうなのか?という問いを並行的に問うていた。だが今は自己などどうでもよく、関心事といえば彼氏に愛されているのか、愛されていたとしたらそれはどのくらい深いのか、どのくらい大きいのか……それだけである。

彼氏は私の聡明なところが好きだと、出逢ったばかりのころは言ってくれていた。今はもう聡明さなど手放してしまって、莫迦な女(この女という言い方が私は嫌いなのだが、露悪的にこのように言っておく)の姿しか晒していない。このような私に失望するのも遠からぬ未来だろうか。いつ愛想を尽かされるのだろう。

私は莫迦だったのだな。そう思っては、失ってしまったフィロソフィアを惜しんでいる。なぜ崇高なはずの知への愛が彼への不安などという下卑たものに取って代わられてしまったのか、失望している。

見えないこころのへその緒の話

私は親から精神的に自立していないので、認知の歪みが親に適用されてしまう。自己肯定感が低い……こう言ったときの「自己」の中に、両親が組み込まれてしまうのである。

であるからして、両親が側から見て普通に立派?な人である可能性がある程度にはまともな人たちであるにもかかわらず、私の中では「うちの親はダメである。ダサい」などと考えてしまっている。これは大変親不孝であるし、間違いなくドラ娘の烙印を押されること請け合いである。

たぶん精神的へその緒、っていうのがあるんだろう。「親を尊敬しています!」っていう人がいるが、こういう人は、精神的へその緒が切り離されていて、「親」と「自分自身」が対等で、別個の人間同士としての関係が結べている。このへその緒が切れるということは、大学生以上くらいの人間の発達課題だと思う。

それに比べて、私はてんでダメである。認知の歪みが親に適用されるということは、親と自分が不可分になってしまっているということだ。しかし、「親ができる人で、自分ができない」の場合と「親ができない人で、自分ができる」の場合では気の持ちようが変わるような気がする。現状では前者に近い。「親はまぁまぁできる人」だと思う。それなのに、親=ダメ、ダサい。となっている。では後者は、というと、「自分ができる」ことから、自己肯定感が高く、認知が歪んでいないかも知れない。よって、親に認知の歪みが適用されるという事態もない。

したがって、私はつまり「自分ができないが故に自己肯定感が低く、認知が歪み、両親にそれが適用されている」ということなのではないか。ということは、私ができる人間であれば、「親ダサい」問題は解決するのかも知れない。そうなれば、現実は「親はまぁまぁな人で、自分はできる人」となり、卑屈になるようなことはまずないだろう。

ここまで考えてくると、彼氏の両親はかっこいい(彼氏のご両親はできる人で彼氏もできる人)が自分の両親がダサいことで悩む問題は、ただ私ができる人間になり、少しでも自己肯定感を高く持つことで随分いい方向に解決されるのではないだろうか?と思うのである。


しかし自己肯定感を高く持つこと自体が、「それができたら精神科は要らない」と思えるほどにハードルの高いことであり、ここまでわかったところで何ら嬉しくもなんともなく、アハ体験なんてもってのほかなのである……。

自己肯定感を忘れて成長した人って、つらくない?


追記。

そもそも、この歳で親がカッコいいかダサいかで悩む時点で相当おかしいと思わなければならない。親は親、自分は自分。大人であり、自分の人生という船出をとっくにいたしているわけである。私はまだ船着場で、見送ろうとしている両親に無邪気に話しかけ続けている精神遅滞の娘のようだ。

精神が病んでいる人の内省

今回も私、つまり精神に問題がある人の話です。

私は、高校生の時に同じ部活の女の子に執着していました。私の自覚的な精神病歴は高校時代に始まっています(無自覚なものは小学生以前からあると思われる。場面緘黙症など)。その子のことはMちゃんとしましょう。彼女はとても成績が優秀で、あまり群れたりしない子でした。一匹狼という言葉がよく似合うタイプで、かなり男勝りなところがあり、思春期の女の子が陥りがちな性倒錯の誘因となるにはぴったりの逸材でした……少なくとも、私にとっては。

私は当時同性愛というものをよく知らず、そういうのがあるらしいという曖昧な認識をしていました。Mちゃんは当時、自身がレズビアンであると認識しており、私に同じ空気を(なぜか)感じ取ったらしく、高校入学からさほど経たない時期にカミングアウトしてきたのでした。今思えばその同じ匂いというのは、女子の発達障害という共通点から出てきたものであって、別にセクマイであるという点で同じ空気をまとっていた訳ではない、と今では断言できる。

その時から、私は彼女がなんとなく気になりました。私とMちゃんは最初期のころは大変ウマが合う2人のように見えたし、本人たちも多分「こいつと話すのは楽しい」と認識していたはずです。「2人は同じ中学でしょ?え?違うの?仲がいいから、出会ったばかりの2人には見えない」と先輩に言われたりしていた。当初は楽しかった。私の境界性パーソナリティ障害が火を噴くまでは。

彼女は私の前で屈託無く笑う。その笑顔は、私以外には見せないものだ(本当は仲の良い相手なら見せる可能性がある。ただ彼女が孤高の一匹狼のように振舞っていたのであまり見なかっただけ)。そう思い込み始めた私は、同時に彼女のことを好きなのだと思い込んだ。Mちゃんがレズビアンであるというカミングアウトをしていたことも好都合に解釈し、「私と彼女の間には他の人には割り込むことのできない絆があるに違いない」などと思うようになっていた。はっきりいってキモい。

なんか、こういうのがこじれて、二、三年前の佐世保女子高生同級生殺人事件、みたいになるんだろうなぁと思わずにはおれない。正直あの、加害生徒である「もなみちゃん」という女の子のことが私は気にかかる。

おいといて。

まぁこういう感情になったころ、私の境界性パーソナリティ障害のスイッチが入ったのである。スイッチが入る過程はあまり詳しくは覚えていないが、とにかく彼女に会えると思うと、そんな日には胸がキュッとなり、会えた時には世界が輝いて見えた。彼女は私より成績が良かった(Mちゃんはトップクラスで、T大に行った。私は上の下くらいだった)。なので私は焦りを感じていた……なぜか私には、★運命の2人は崇高なつながりで結ばれており、生い立ち、能力などが対等でなければならない。という謎ルールがある。このルールは境界性パーソナリティ障害でよく言われる「ターゲット(依存相手)」にしか適用されない。他の人が自分より優れていても、「すごいなぁ」と普通に思うだけ。★したがって、私が彼女と同じくらい成績が良くなければ、私はMちゃんと結ばれることは許されない。などと考えていた。

些細なことで私とMちゃんの生い立ち(これは親の学歴や仕事のかっこよさ、年収、家の綺麗さなど。なんやねん)や能力に差があると思ってしまうと、めちゃくちゃ精神不安定になった。彼女が私以外のお友達と楽しそうにしていると、私は文句を言う。

はい、ウザいこと極まりないボーダーメンヘラの出来上がり☆めでたs……くない。

こんな調子なので、私は次第にMちゃんに嫌われていき、しまいには話しかけただけで暴行を喰らうまでになりました。私は被害者ヅラしていましたが、立派な正当防衛だったんでしょう。これがきっかけでうつ状態になり成績も落ち、被害者ヅラして保健室登校していた自分が情けない。被害者はどっちだよ、と言いたい。


さーて、現在の彼氏に当てはめてみよう。

これが驚くべきほどに合致する。だめだ、まるで成長していない。

なぜかMちゃんと彼氏が似ている……顔と生育環境(お父さんとお母さんの職業が大体同じ。父文系母理系同じ。ただお父さんがスパルタタイプかそうでないかの違いはありそう。その点Mちゃんはしんどそうに見えた。実際、彼氏は研究を続けたが、Mちゃんは大学に入ってから学問への情熱を失った。親の評価を気にして勉強していた反動だと思う)。

違うのは、まだ10代の高校生だったMちゃんに比べて、20代後半の彼氏の方が度量が大きいと言うこと(Mちゃんには本当に悪いことをした。彼女は別に悪くないし、度量が狭い訳では決してない。あんなことがあっても、今でも連絡したら返事をくれるいい子である)。★のルールが崩されるようなこと(親の仕事のかっこよさの落差とか学歴の落差とか、院生同士なので研究できる彼氏に比べて研究に打ち込めないカスメンヘラな自分とか、人格形成がまともかそうでないかとか)があると鬱になりめんどくさいことを言い出したり、些細なことで自分が愛されていないと思い始めて喚いたりするボーダーメンヘラの私を「かろうじて」受け止めてくれている。しかしかろうじてである。こんな理不尽なことでぐちぐち落ち込む彼女の世話なんて強いられたら、いつ彼氏だって心のダムが決壊するか知れない。だめだ決壊させてはならない。そこは私のバランスの取り方にかかっていると思う。まずは自分の心のダムを増強しないとならない。メンヘラボーダー女を徐々に卒業していきたい。


……ということをダラダラと述べておいてアレだが、ほんとに行き当たりばったりで文章を書いて読みにくくて悪いといつも思う。そして、こんな記事を読むのはコアなキイロネズミファンかヲチ目的の人くらいだろうから、まぁいいやと開き直っている。


おやすみ(朝)。

鬱屈

大学に行く途上でうつ状態に入ったので、研究室に行くのを躊躇って休憩スペースに座った。

どうしてこうもジサツしたい気持ちになるんだろうか。実際にはやる勇気がないのにジサツ願望があるのだ。やる勇気がない願望。エア希死念慮である。1番めんどくさいやつだ。「ま〜ん(笑)」という言葉が私は頗る嫌いだが、まさしくこう揶揄されても仕方がない状態だ。

いまなら祖母がよく言っていた「身の丈にあったことをしろ」ということが、実は間違ってはいなかったとわかる。いや、そう言われて育ったので「身の丈」が随分成長を阻害されて、のびのび育ったらできたはずのこともできなくなっているのだろうから、正しい教育ではないと思う。絶対に。

しかし、今となってはもはや、「身の丈にあったこと」がよく分からない。現状では、学歴だけが妙に突出してしまっている。そのせいで無駄にプライドが高い無能となってしまった。祖母は多分、地元の高校を出てせいぜい地元の地方国立に入って(これでも相当すごいと私を褒めそやしたであろう)、地元の中小企業か役所にでも務めて、適当な年齢で見合い話でも来て「相応の人」と結婚するというのを期待していた。いまは、身の丈に合わない大学、大学院に行って、身の丈に合わないエリート家庭のエリート息子(ハイスペック)になぜか見初められたという状態にある。彼氏は顔だけで私を選んだというのが私の中で定説となっている。なんだこれ、なんのために大学院まで来たんだろう。絵に描いたようなま〜ん(笑)じゃないか。私が最も忌避するような人種に自身が成り下がっているという事実に笑ってしまう。

そして「身の丈にあってない彼氏と結ばれるのは罪だ……」という、誰も幸せにならない思い込みをして、鬱になっているのだ。なんのために生きているのかいよいよ分からない。女だもの、生物として、自分の伴侶を選ぶのに精一杯で当然よね!なんていうま〜ん(笑)。恥を知れ。

身の丈とかいう毒祖母ワードに私は縛り付けられている。そして、その毒祖母に育てられた叔母もその思想に染まっており、「キイロネズミちゃんは勉強を頑張らなかった方が幸せだったね、スペック低いんだから」みたいなことを言う。ほんとうに死にたい。