私の修士論文への葛藤

私は、修士論文を書くのにいま非常に苦悩している。アウトラインはできている。何を書くのか理路整然と説明はできる。だったら、普通はあと書くだけで、なんらの苦労は要らないはずだ。

しかし大きな問題がある。私にはこの3年間、研究生活が困難になるほどの問題が次々に襲いかかってきた。これらは私がしっかりしていれば防げたところも多い。異性がらみの問題や、性自認の揺れの問題、心気症、彼氏との関係についての悩み、自己否定感によるひどい抑うつや、希死念慮。すべて心の弱さから来ており、私が悪いと自責することは容易だ。だが本当に、容易だろうか。私にはどうにもできなかったのである。溢れ出す負の感情、不安、それらは薬でどうにか制御したが、その薬は副作用が強い。歩行がおぼつかなくなるようなものだった。

よって私の研究活動は遅々として進まず、「あまりサーベイできていない」という致命的な問題を抱えている。あと3ヶ月で出さなければならないのだから、いまさらサーベイしている場合ではない。だから、少しご法度な向きもあるが、今まで読んで来た少しのものと、あとはどうしても必要そうなものを掻い摘んでちょっと引用するだけくらいに留めないといけない。

なんだかんだ50くらいは読んだと思うが(しかしこれらも一部しか読んでいないのがほとんど)、本当はこれの倍くらいは読んだ方がよかった。まぁD進しない人の修論は得てして参考文献数が少な目になるので、とりたてて少ないというほどはないが……。

サーベイ不足で重要な研究潮流を見逃すことは最低限度、してはならない。しかしそれがないのであれば、自分の書きたい歴史像が大体定まっているのであれば、それらを書き起こせば良い。史料をしっかり読み込み、適切と思われる解釈を与え、新たな歴史像をその分野に付与してやることが重要である。

レファレンス数が少ないという問題を気にしているのならば、そんなのは最悪、元気になったあとに付け加えれば良い(提出後の差し替え……先生方に直談判したら認めてくれるだろう)。もはや、今となっては修了が最優先である。とにかく、締め切りまでに最低限のレベルには達しておくことだ。そのくらい、私の「はったり力」を持ってしてみれば余裕である。私には文章力があること、これは幸いだ。

それから、先生に私の置かれたこの3年間の苦しみについて情状酌量をいただくのを忘れないでおこう。どんな血反吐を吐く思いで、私はいたのか。私はとある事情から今年度絶対修了する必要があるので、最大限度の力は尽くすが、それでもサーベイ数が多くないし少ししか読み込めていない文献があるので、少々物足りない部分が出てくるかもしれないこと。

私は、私のために歴史学をやった。私がいま、少しでも苦しくない道を行くために選んだ学問だった。高校生の頃から私は精神が悪かった。それでもなんとか進むには、目の前にあるカードを切るしかなかった。私の目の前には歴史学社会学、心理学の3つのカードがあり、偶然が重なった結果、歴史学を切った。

将来を見通して、歴史学を選択したわけではなかった。学者になりたいというのも本当は建前だった。私が真に模索していたのはただただ、「どうしたら、苦しくなく生きられるのかなぁ?どうしたら、私は死にたくなくなるのかなぁ?どうしたら、どうしたら……」ということだった。

私の前にTちゃん(彼氏)が来た時、私は、歴史学の役目はここまでだと思った。彼女(女性名詞である)は確かに、Tちゃんのところに私を連れて来た。立派な役目を果たした。私はここで、歴史学への興味関心を喪失してしまった。

それと同時に、Tちゃんというできた彼氏との日々が始まる中で、私はアイデンティティの崩壊との葛藤が始まった。私は自己肯定感が著しく低い。彼には釣り合わない。だが彼に依存しており、彼がいないと生きていけない。それでも、彼には釣り合わない。

私は内部で分裂した。彼とともにいたい私と、私を消し去りたい希死念慮との戦いだ。彼と合一し自分をなかったものとするか、はたまた死ぬかの二択だ。私には決定的に自己肯定感が欠如していた。彼と「おんなじ人」になることでしか、私の生存の道はなかった。私は私を否定しているから、素晴らしい「かれ」と一緒でなければ、生きていくことはできない。

それなのに、彼は私には眩しくて、私は死んだ方がいいのかと思った。

生きるか死ぬかの葛藤がそこにあった。その中で、歴史学への興味などとうの昔に、地層の深いところに沈んでしまった。それでも、修論は書かなければならない。いま一生懸命、Tちゃんのところに連れて来てくれた優しい彼女との再会を果たすべく、私は頭を抱えながら、パソコンに向き合っている。

司書講習の夏はやたら長かった。

長かった。と過去形にして書いているが、まだ終わっていない。身バレを避けるために、どこで司書講習を受けているかを具体的にいうことは避けるが、私は短期集中(決して短くはないが)の司書講習に今夏、やってきたのです。

始まってからもうけっこうな日数がたっており、3分の2は日程を消化した。最近ブログを更新しなかったのは、この司書講習が大変ハードだったからだ。今もすぐさま寝たいくらい疲れているのだが、かねがねそろそろ更新したいと思っていたので、書こう。

私はこの司書講習の間京を離れているので、いつも通っている診療所(神経科)に行くことができない。そこで、学部時代にお世話になった(以前通っていたが引越しにより中断した……あ、身バレフラグ)病院に再び通い始めたのである。つまり、私は大学時代を過ごした場所の近郊に戻ってきているのだ。

こちらに戻ってきてから、いままでずっと考えてきた、「なぜこんなに生きづらいのか問題」を相変わらず考えていた。結局まだ答えは出せていないものの、ふとネットサーフィンをしているときに見つけた診断テストを行うことで、また私は新たな仮説を発見したのだ。それは、「愛着障害」である。

私は自分のことを理解するためには努力を惜しまないので、愛着障害についての本を購入して読んでみた。久々のお医者の先生にも、この疑いについて話してみた。そしたら、先生もそうだと思い至ったようである。私は、愛着障害の原因であるところの幼少期の養育環境について、あまりこの先生に話したことがなかったのだった。

愛着障害という精神病理は以前から名前を聞いていたのだが、それは「母と子の関係が悪いと発症してしまう」と理解していたため、私は母との関係が悪くないことから、スルーを決め込んでいた。食わず嫌いならぬ、「調べず嫌い」のような状態にあった。しかし、そんな白か黒かのような、母との関係が「いい」「悪い」だけで発症するか、しないかが決まるような単純なものではなかったのである。子供の脳は可塑性に富んでいるから、非常にデリケートであり、ちょっとしたことで発達段階におけるエラー判定が出てしまうのである。たとえば、養育者がちょっと鈍感な人で、子供の「ぐずり」に適切に対応できないことが多かっただけで、その子は根源的な安心感を得られなくなってしまう。この根源的な安心感というのが、生きる土台であり、人間の最初の発達段階である。

あからさまな虐待被害児は世間からもかわいそう、と言われるが、私のように表面上はそれなりに恵まれているように見える人間には、「社会不適合者」「人間の失敗作」という評価がつけられてしまう(というか、自分でそう評価していた)。

そしていま、四半世紀を生きてしまい、私は絶望して泣いてしまうことがある。私の脳はもう可塑性がなく、もう私の人生は閉じていると。しかし、どうにかしていまより「善く生きる」ために、自己実現を果たすために、私は失われた生きるための土台を探さなければならないと感じている。


司書講習の話を冒頭でしたきり放っておいたようだが、私の話はつながっている。司書講習を受けにきたことは、私の生きるための足掻きの最初の一歩である。この先の人生を生き直すための1つの試練として、あと少し踏ん張りたいと思う(その後に待ち構えている修論修論で毎日が試練の連続だが、今は構想を練ること、史料のまとめに集中し、まだ執筆していない……やばいが、まぁなんとか「する」)。

ワイパックスではない。

抗不安薬を服用するといつも気分が高揚して楽しくなるのだが、私はいま、飲んでもいないのに気分が上がっている。だからまた気分が翳る前に、フレッシュなうちに、何についてテンションが上がったのか書き記しておきたいと思う。

大学院に進学して早くも3年目(恥ずかしながら)になるのだが、私はその間、ずっと自分がなぜ生きているのかも分からず、生きるのも苦しく、どうにか生きている意味を模索しているような段階にいた。その原因はこれまで散々書いて来たように、実家が隠れ毒親家系であることが影響しているのだと思う。

一昨年度にプチ転機があり、昨年度に大きな転機があった。転機続きである。こういう状態になると、悪い意味でテンション・ハイに陥る。つまりは躁転してしまうというわけだ。

まず、2015年度にあったのは、自身へのひどい女性性嫌悪からの解放だ。とはいえこれはまだ多少残ってしまっていることが最近判明したのだが……根底のところでは残っているが、表層的な部分に露見せずに済むほどには解消されたということ。

続いて、2016年度にはTと出会ったので(彼氏)、有無を言わさぬ女性性の需要を経験し、これまで結婚できないという人生設計でいたのが大きく転覆した(ただし現在未入籍)。

これらを経験して私は本来のあるべき姿(女性)を取り戻していったと考えられる。これは良い傾向であった。しかしまだ大きな課題が残されていることも確かである。

私はアダルトチルドレンであり、発達障害であり、境界性人格障害であり、結果的に結構難儀な精神病者だと認識している。発達障害だけは先天的なので、それの影響で幼い頃から気分不安定性が認められ、その上に恵まれぬ家族構成と成員、社会環境(学校でのいじめや教師からの冷遇が相次ぐ)のために精神がおかしくなった。結果的に、得て来た学歴(まぁ頭でっかちなので学歴だけではダメだという向きもあろうが、何もないよりはマシかと思っている)にしては著しく自己肯定感が低くドン引きレベルである。顰蹙ものである。多分、自己肯定の唯一の発露が学業であったからこうなった。

大学の学部まではこういうハリボテ学問クラスタでもなんとかなるものである。しかし大学院に行くとそうはいかなくなる。大学学部までは結局「学校」であり、卒業論文すらも大した専門性は要求されない。最悪、べんきょうしたことを書けばいい。私は一般的な卒論生よりは専門性の高いものを書いたはずだが、多くの学生のレベルだと、学部段階では専門性を求めるに至らないのである。そして自分が学問という大海においていったい何をしているかもこの段階では曖昧模糊としているのが常なので、ここには「自己実現欲求」が介在する余地がない。

マズロー欲求段階では4段階目(承認欲求)を卒業論文でクリアし、修士論文から博士論文にかけては「自己実現欲求」と対峙する必要があると私は考える。私は承認欲求を十分にクリアできる卒業論文を書いた。しかし、私は幼少期から社会的に承認されてこなかった。私に極めて大きな影響を与えた祖母は私の頑張りをいつも素直には認めなかったし、どうせ失敗するから無理をするものでないと言って挑戦を応援しなかった。私は承認の請求権すら与えられてこなかったのである。

私がクリアできたのはマズローのいうせいぜい3段階目(社会欲求と愛の欲求)までて、4段階目はクリアできなかった。卒業論文を書いても、4段階目はなおクリアできなかった。当時は教員からやたら褒められた。いまだに古巣の学部時代を過ごした大学の教授が「いつでも戻って来ていい」と言ってくれている。私の卒業論文ごときを高く評価してくれたのだ。それなのに私は第3段階にとどまった。祖母の幻影(まだ生きてます)が第4段階への移行を阻んでいるのである。

私は自己実現欲求以前に、第4段階にすら到達していないのだ。今日の分析で身に染みてわかったのである。

逆に考えたら、第4段階に到達できた時、私には無限の可能性があるのではないかと思った。第5段階の、最も高次の「自己実現欲求」はふつうはまだ若い院生には満たせないが、それを目指して頑張って行く段階である。私はこれを第3段階で足踏みしながら行わなければならず、そこに大きな不安と自己不全感が付き纏ってくるのは至極当然の有り様なのである。

したがって、私は第4段階へステップ・アップしたとき、また自分の研究を楽しく思えるようになったり(研究活動の再開)、あるいは何か別の仕事(たとえば図書館員としてや、翻訳者としてなどが考えられそう)にやる気になったりする可能性があるのだ。

先ほど改めて修論のアウトラインを考えていた。すると、なるほど、この研究も第4段階に進んだ時にまた違った風に見えるのだろう、と思った。そしたら、その先にある無限の可能性を(いまは靄がかかっているが)見据えて、ワクワクしてきたのである。

第4段階以降に進むために、私はどうしたらいいのか。それは、ひたすらに祖母の幻影、血統の幻影を振り払い、一個の人間として確立されることである。つまりはこれが自己肯定感であり、私を真に救う救世主となりうるのである。


さて、さすがに明日の講義に間に合わないとやばいので寝ます。

うたと私

はいつ歌が好きであると気がついただろうか。最初に歌ったのは、保育園に通っていたころ、ひいばあちゃんと遊んでいるときに不意に口ずさんだ即興のしょうもない歌だった。そのとき、私は自分の音感とか、声が綺麗かどうかとか、気にせずに歌っていた。ただ言葉ならぬ言葉を繰り返しながら、一定のメロディにその言葉を乗せていた。

保育園年長から小学校のころに習わされた「鍵盤ハーモニカ」が私は大嫌いだった。ピアノを習っていなかったので、うまく吹けなかったのである。ピアノをしている子はスラスラできていた。これが私の大きな躓きの石だった。年長のとき、練習をサボって先生に怒られたこともある。鍵盤ハーモニカ棚の後ろに隠れていた。クラス随一のチビで欠席がちの私がいないことを、練習が終わるまで先生は気づかなかった。そして終わったころ気がついて、鬼のような形相で私を睨んだ。当時祖母と同じくらいの歳だったその先生はまだ70代で先日亡くなったと聞いた。先生、私は音楽が好きになりました。

……だが歌は別だった。歌を得意だと気がついたのは小学校何年生だったか忘れた。忘れたが、記憶に鮮明に残るのは小五のときの歌のテスト。確かコンバースの「星の世界」という歌だった。当時の担任は厳しい人で、厳しすぎのせいで問題視されて小学校を早く転任になってしまうような人だった。彼女は私をよく傷付けたが、このときは違った。私は声が小さい。声が小さいけれど、「音程がすごくいい」と驚き、大変褒めた。それほど音程が抜きん出てよかったのだ。私はピアノもヴァイオリンもしていなかったので音感があるはずもなかったが、父親が音楽好きの人だから、クラシックのCDをよく聞かされていたからなのだろうか。とにかく音程はよかった。

それから、中学生の時は、クラスのみんなの前で歌を披露しなければならない、それが歌のテストである、という時があった。その時愛唱曲集の中から好きな歌を選ばされた。私は親の車でよく聴いた、スピッツの「空も飛べるはず」を選曲した。この歌は母が好きだと言っていた。「幼い微熱」ってなんだろう。「神様の影を恐れて」ってなんだろう。私は風邪をひいた主人公が、自分は死ぬんじゃないかと思っている情景を思い浮かべた。そして、実際私は風邪をひいて微熱がある時、自分は死ぬのではないかと恐れおののく気持ちがした。だからその歌は私の中で、人生で初めて死を思った切っ掛けだった。余談だがなぜかスピッツ「渚」も死を思ってしまう……(草野マサムネ氏は、曲を作る時、性と死を思っているそうだからこの感覚は正しい)。

話が逸れたが、私は「空も飛べるはず」を歌った。歌い終わった時、教室がわずかにざわついていたと思う。引っ込み思案でおどおどした私が意外にも上手く歌うのにみんな驚いたのである。

私はこのように、さえない義務教育時代の自尊感情を歌に支えられながら送った。歌を歌うと、私は私でいられるような気がした。私は人に認められたい一心で歌を歌った。うたは、言外の筆舌に尽くしがたい思いを無形のかたちにして人に届ける。人が自分と違う受け取り方をしたとしても、それはそれとして面白い。そうして聴いてくれた人もなにかを感じて心象風景が豊かになってゆく。

私は場面緘黙症で、学校ではうまく人に言葉を伝えることができなかった。あの日々はつらかった。周りが怖くて、声が出ず、少しでも声を出さざるを得ない時は吃音の症状が出て、いじめられる恐怖、自己嫌悪と戦わなければならなかった。20年近く前だからまだ場面緘黙症なんて知名度が低く、誤解を受けてばかりだった。だからこそ、うたは、私が私を表現できる限られた機会だったのだ。

だから私は高校の時、飛びつくように合唱部に入った。大学のサークルも混声合唱を選んだ。そして今も市井の合唱団に所属している。しかし気づいたことがある。合唱するにも、お金がいるのだ。要り用で、虚弱な私はバイトができない身の上だから、どうしても賄うことができないでいて、ついに手をつけないでおこうと思っていたつらかった短期バイトのバイト代に手をつけるところだ。親にも彼氏にも反対されて、また自分自身お金を工面できないことから、次のコンサートが終わったら一旦退団を申し出ないといけない。私は悲しい。どこかで私は歌を歌いたい。悲しみのない自由なそらへ翼はためかせて行きたい人がいるらしいが、私は悲しみのない自由の身になって、いつまでも歌を歌えたらいいのに。長年の鬱病があり、不自由で、歌を歌う場所はどこにもなくなってしまう。

今後の目標

今後の目標(2017/6/13)
 いつも私は行き詰まりの打破のために、今後の目標をまとめることにしている。今回から、たびたびこのブログにもアップしていくことにする。
① 健康面に関して
 あまりよろしくない。彼氏Uと一緒にいるときに悪化しやすい傾向。これはなぜか。私の予想としては、私が彼氏Uに甘えているがために、私はどのくらいまで精神脆弱になってもよいだろう、受け容れてくれるだろうと考えてしまい、「自分で立つ」ことが不可能になっているのではないか。
 一人でいる時間のほうがしっかりした自我を感じられるし、また精神生活も充足しているように思う。私は意図的に一人でいる時間を増やすように努めたほうがよいらしい。彼氏Uがいないということで生きていることによって生じるどうしようもない不安を紛らわせることはできるが、自分の人生を生きることを放棄しているような感じである。
② 学業に関して
私は修論に取り組まなければならない。それはわかっているが、現状では、書くことを考えると足がすくんでしまうという、学部の時の卒論時と同じ症状に見舞われている。今回は卒論より専門性が高いものを求められるのだから、あのときより高い舞台から飛び降りる決意が必要である。何としてでも、書かなければならない。
そこで、考え方を変えなければならない。確かに、今後の人生のためには(D進を将来的に考えるにしても、考えないにしても)できる限り優秀な論文を書くべきであり、そうしたいと思っている。だが、論文が下手だからといって別に死ぬわけではない。いまの時点で用意できるものを、調査したものを、それらしい結論へとまとめられればそれでいいのだ。こうして書くと、たいしたことは要求されていないではないか。そして修論を書くのは、修論を書くためにではない。いま私は、修了するには修論を書かないといけないから、修論を書かねば。という息の詰まるような思考をしている。これがよくないのであろう。モチベーションが確実に下がる考え方だ。ならば修論を、なにか開かれた素晴らしいもののために書くと考えよう。私の場合、修論を書いた先には、彼氏Uとのいろいろあるだろうけど楽しい幸せな生活が待っているのだ。そのために修論を書く。素晴らしい人生のために書くのだ。
③ 司書講習について
司書講習に行けることになった。愛知学院大学である。こうなったら、私は絶対司書の資格を取り切ろう。単位を落とさぬように、頑張ろう。9月の下旬には、帰ってきてちゃんと修了証を見せられるように。結婚してから、司書の仕事をする自分をイメージしよう。司書講習の間、いろんな人との出会い、いろんな新しい知識との邂逅があるだろう。それらが今後の人生の花を咲かせるときの肥料になってくれることを期待している。

小さな成功体験は難しい

私には保育園に通っていた頃の記憶が断片的に残っているし、小学生のときの記憶もかなりの鮮明さで残されている。自我の成長が自分の中だけで早く、家の外では一切誰かと話すことができなかった(場面緘黙症)ために、対外的な経験から獲得されるべき部分では自我の成長が遅れていた。それだから、周りから不当な扱いを受けてしまうことが多くなっていた。

主に上述の理由だが、他にもさまざまな要因が複合的に作用して、私は物心ついた頃から自尊感情が低かったので、それがデフォルトであり、何か挑戦しようとしても恐ろしくなって病的な不安にかられ、本来の力を発揮できないことが殆どだった。それでも平均より優れたパフォーマンスを上げられることも多いものだから、元々の能力は恵まれた方だったのだろうと醜くも自負している。

最近、私はひょんなことから短期バイトを始めるに至った。5月までの短期間である。このアルバイト、チラシを配るものなのだがそれだけではなく、道行く人にその施設の無料体験会の来場を約束させることまでが業務であり、かなり高度なコミュ力を求められる。ほとんど断られるのはわかった上で、宝探しをするようなものだ。この仕事は私には全く向いていないと思って心配だった。しかし、やり始めるとこれが楽しい。そっけない人、愛想がいい人いろいろいる。愛想が良くても断る人が大半だ。それでも、めげずにやることができるようになった。断られているのは私という人間じゃない。今の私はいつもの私ではなく、「アルバイター」という別人格……と思ってやるようにしている。

私は自尊心を保つために「成功体験」を積むことが大事だとよく聞いてきた。それは私にとって嫌だったし納得ができなかった。成功体験に至るまでのハードルが高すぎるように思え、それができたらここまで自己肯定感がない人間にはなっていないよ、と冷笑的だった。だが事実、このアルバイトで私は小さな成功体験をたくさんしている。それだけでなく最近はいろいろな場面で、小さな成功体験を重ねることを意識している。簡単なことではなかった。小さな成功体験でさえ、大きな勇気が必要だった。子供の頃、外で「はい」と言うのすら心臓がバクバクして辛かった。その私には、見知らぬ人に話しかけてビラを渡し、無料体験会の説明をするなんて言うのは何ステップも飛び越えた大仕事なのだ。

小さな成功体験に大きな勇気。普通の人は簡単にやってのけることで、私には何十倍もの重圧がかかる。これは大きなハンディキャップだろう。だが私は、これからの人生で「自己実現欲求」の発達段階に至るために、この挑戦を続けていきたい。私はいまだ承認欲求を求める未熟な小人間だ。私は立派な大人になりたい。いずれ自分が子供を持ったとき、子供にとって自慢できる、少なくとも卑下の理由にはならない母でありたいのだ。もちろんこの挑戦を続ける一番の理由は、人生の保持者である自分のためでなければならない。

メンヘラ女の戯言

たわごと、ざれごと、どっちも同じ字を書くんですね。これから書いて、眠れない夜に悶々と考えたことを記録するのです。読むのは時間の無駄かも知れませんよ。

私は眠れない時に延々と独り言をすることがある。今もそれをやっていた。話しているうちに、書き留めておくだけの価値があるのかも知れないと思った。

私は幸せではない。幸せを、幸せであると素直に認識できる人が幸せであり、幸せなのに幸せを受容できずにいる人は全き不幸としか言いようがないと私は思うからだ。私は彼氏がおり、大変愛していると宣言できる。しかしその彼氏を愛している私自身のことを、私は愛しているだろうか?答えは、全く愛していない、となる。むしろ憎悪しているとも言える。私は私にまつわる全てを愛することができない。私が私と不可分であると認めたものに関しては、憎悪の対象となる。例外は、ちゅうというピカチュウのぬいぐるみと、彼氏くらいである(そもそもこれらを不可分であると考えること自体が病的な可能性もある)。反面家族は、不可分と認識しているがために、卑下の対象であり、どうしても愛することはできないでいる。これは私があまりまともではない家族に囲まれていたせいかもしれない。私の家族成員には愛すべき人々が揃っているのだが、それぞれに難点があり……まぁご愛嬌の範囲だと思うが、病的に敏感な私には深い禍根を残す結果となった。残念ながら。

それで、私は眠れない夜に、私はなんと不幸なのか?ということに思いを巡らせた。幸福とか、不幸だとかいうのは本来は神様がお決めになることなので、人間風情が決して良い問題ではない。それは傲慢というのだ。

しかし、私はどうしても、この彼氏にいくら大事にされたとしても自分が幸せであると思えないことの理由を突き止めて、手放しでこの幸せを噛み締め喜ぶことができるようになりたいと思った。だから、まずはこの、大事にしてくれる人間のできた彼氏がいるのに幸せを感じられない不幸な状態を把握する必要があった。

私は少々自己肥大がすぎるようだ。何を考える時も、「自分」基準でものを考える傾向がある。自分だったらどう感じるのだろうか?自分もそういう経験があるだろうか?など、とにかく自分中心の考えが私は多い。

ただ無心に、彼氏のことだけを考えているうちはいい。幸せだ、彼氏が好きだと考えてニヤニヤするまである。しかし、「自分」という存在を隣に置いて比べてみるとたちまち2人は釣り合わないとか、私は劣っているので、一緒になっていいような人間ではない……などという自己否定に走り出し、しまいには「彼氏と出会わなければこんな気持ちにはならなかった」「彼氏の存在を忘れられたらどんなに楽だろう」などと考えてしまう。

つまり、彼氏との関係において「自分」をあまり意識しすぎないほうがいい。さらにいうと生活のあらゆる局面で、できるだけ「自分」というファクターを排除したほうがいいのではないか?ということに気がついたのである。わかりやすくいうと、「自意識過剰」なのである。これを行き過ぎた自己肥大、などと表現しているにすぎない。

みんな私ほど、人生において「私」について考えないだろう。子供なのか哲学者なのかよく分からないが、褒められた特質ではない。

太宰治氏。高野悦子氏。私に影響を与えている文筆家だが、ともに肥大した自己を持て余して、自殺した。このままいくとますます私はどん詰まりに追い詰められ、「ジサツ」のコースへ入ってしまう。それは回避すべきことだ。

ということを、眠れない夜に考えるからますます安眠が遠退く。