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カマトトぶった女性向けエロ漫画(ヘテロ)

なんていうタイトルだ……。と思うかも知れませんけど、出し抜けに言いますと、私はエロ漫画広告が大嫌いだ。よくネットやってるとバナー広告が出るじゃないですか。あれです。めっちゃきらい。

ですが、めっちゃ腹立つやつと、うわぁ、とは思うけど大丈夫なやつがある。その差はなんなんだろう、と考えていたが、昨年ある結論に達した。虫唾が走るほど嫌いなのは女性向けエロ漫画広告。引くけども大丈夫なのは男向けエロ漫画広告だということに(ここで女性向け、というのはBLのことではありません。TL、つまりティーンズラブ、男女恋愛?を描いた漫画です)。

普通は男性向けのほうが身勝手でアホな内容なので腹がたつものだと思っていました。一応女性サイドなので。しかし、違いました。女性向けのほうがよほど腹がたつ内容なのです……一体何故なのだろうか。私は男っぽいから、男向けのほうが女向けより共感できるのか?と思っていました。しかしどうやら違うみたいです。女の子の描き方に私の嫌悪感を抱くか否かが集約されていました。

男向けのほうが、総じて女の子は性の快楽に対して「開放的」で素直です。場合によっては相手の男の子より積極的だったりします(これが下品な描写に堕ちた場合は嫌悪の対象ですが)。

対して女向け漫画の主人公の女の子は、やることはやってるのにどこまでも「清純」であろうとし、何回も相手と肌を重ねているにもかかわらず涙を流したり、うぶな反応をしています。非常に女子の性の快楽に対して「閉じた」構造が見え隠れするのです。女の子は受け身でなければ可愛くない。男の側に一方的に求められていて、完全に受け身(の姿をしている)。

うーん、世の女性はこんな漫画を見て楽しいだろうか?萌える〜ってなるんだろうか。私は全然ならないのですがね。むしろ、女性が受け身であることをこれほど強調して、何が女性向けだというのか。男性向けに多い、女の子がマドンナ的に描写され、女の子のほうが積極的で男の子がまごついているくらいのほうが、私は安心して読むことができます。

女性向けエロ漫画より男性向けエロ漫画のほうが、よほどウーマンリブをうまく体現できているように思う。

睡眠障害のはなし

不眠症ではないけど、入眠障害なんですよね。普通にぐったり疲れていても、なんだか強迫的に「起きていないといけないような気がする」ので眠れなくなります。ひどい場合、頭やお腹が痛くなって「頼むから寝てくれ」と体が赤信号を出してきて死んだように眠るまで、極限まで眠れないんですよね。

なんで眠れないかと言うと、精神性のプロである人(宗教家とか精神科医とか)のうち一定数の人はこう答えるようです。「眠れない?それは、あなたが正しい生き方をできていないからですよ」と。私はこれをいわれたとき、最初複雑な気持ちでした。こんなに馬鹿正直に生きてきて、私は間違っていると言うのか?と悲しくなりました。ですが、あぁそうじゃないんだな、と最近、ようやく頭で理解するようになりました。

人にはそれぞれ、その人に与えられた適当な生き方があるようです。例えば、なんの仕事をするかということ。どういう心持ちで日々を送るかということ。どういう死生観を持つかということ。様々なレベルで、私たちは自分に合った生き方を見つけて行くようにできています。きっと万人に適合する生き方はありません。あるとしたら、「自分を含めて、人を傷つけずに生きなければならない」ということくらいです。

私は認知がゆがみきって目が曇っているので、「自分が生きていることそのものが人にとって嫌なことで、傷つけるかもしれない」と思ってしまっています。だからダメなんですね、この時点で、あるべき生き方ではないんです。自分を適切に愛せていないので、間違って生きているんです。

不幸にもこういう根本的なこともできずにいると、他のすべてのレベルで「生き方」の選択を誤ってしまいます。「私はこういう人だから、こうありたい」というのは、正常な自己肯定感を持つ人間のみに可能な考え方です。私を含めた自己肯定感がない人間は、「私はダメだから、ゴミだから、このように生きなければ価値はないんだ」と考えてしまいます。

私は現に、私は学問を続けなければならないと思っていました。それこそが私が息をしていても許される安息の地だと信じていました。それしか知りませんでした。

でも、それは私に与えられた道ではありませんでした。進めば進むほど、八方塞がりな感じがしました。私に能力が足りないのかもしれないと思い、だんだん死にたい気がしてきました。あぁ、私は唯一の安息の地だと思っていた場所に見放された、と(実際は自分から遠ざかっていったのです。ある種の人間的本能が、この場所は違うと感じていたに違いありません)。

私はいまだにすっきりと眠りに入ることができないでいる(ブログを書いているので今夜は自業自得であります)ので、まだ私にとっての正しい生き方をできていないのでしょう。それは、時機がきたらできるようになると思います。身をまかせる必要があります。

私はなにが、私にとっての正しい生き方なのかをすでに見つけています。あとはできるようになるだけです。自分の皮を剥くというか、生まれ変わればいいのです。ルネッサンスするのです。

私は本当に神を信じます。神様がたしかに導いています。私は受洗すると決めたときから、すべてが動き始め、神様は私に神様が与えてくださった私の本来の人生を見つけるヒントをくださいました。これはほとんど答えと言ってもよいヒントでした。

私の心は貧しかった。いみじくもこう言ったものだ。心の貧しき者はまことに幸いである。

不安すぎてオワットル

眠れません。まぁ、昼夜逆転してるから仕方ないんですけどね。

私がこのブログを始めた時、非公開にしていました。公開に当たって非公開にした記事もいくつかあります。プライバシーに触れる可能性があるようなものをそのようにしたのです。なんで非公開ブログかというと、大抵非公開にする人はそうなんでしょうけど、日記のつもりでした。あまりに鬱々とすることが多いので、ツイッターに呟くだけでは飽き足らず……というか、リアルの友人たちやその他大事な人たちに(あいつ大丈夫かよ)とか、(うわぁ、気が滅入るから死にたいとかそういうこと書くなよ)と思われるかと思ったので、あまりにどす黒い感情は非公開にしないといけない、でも書いて気持ちを整理したい……こうです。

でも公開してしまっているので、ここだって気持ちを吐き出せる場所ではなくなってきた……のだろうか。まぁそんなに見ている人はいないと思うので、いまからそのどす黒い感情をぶちまける。


さっきベッドの中で眠れなさすぎてのそのそ起きだした。時計を見たらまだ2時をすぎたところである(もう、と表現すべきところだったかもしれない)。実際のところ私の意識はぼんやりとしてきていた。だがそのぼんやりの中に、確かに苦しいとか、絶望とか、死にたいとか、そういう負の感情が渦巻いているので、どうも眠れなかった。

なんでこう、非道いんだろうか……私はほんの数時間前、幸せだったはずなのに。私は幸せを受け付けないのかも知れない。そうだ、最近ご飯もあまり食べなくなった。食べたいという気待ちがあまりない。眠れないし、彼氏がいても幸せに真の意味で浴すことができていないようだ。私は第一次欲求のレベルで幸せになりたくないのだ。これは由々しきことである。

幸せを拒むことは緩やかな自殺に他ならない。当たり前だ、幸せになるために生きるのが本来の人間の姿なのだから、幸せを放棄することは死に積極的に向かうことだ。

私は今まで生きてきた人生の薄っぺらさと膨大な時間の厚み(地球の刻んできた時からしたらほんの一瞬にすぎないのに)に絶望して寝付けなかった。大学一、二年生の時に特に仲良くしていた他大学の友達を思い出した。週に一度か二度、寝ぼけながら利用したゴミ捨て場を思い出した。あれがもう6年前だというのか。信じられないことだ。小学生が卒業してしまう。これだってもっと大人からしたら(たいした時間経ってないじゃん)と思われるのだろうが……しかし薄っぺらい人生を送ってきた私には、はなはだしいwaste of time時間浪費に感じる。

基本的にずっと鬱の渦の中にいた。表面上元気そうにしていても、苦しくてもがいていた。なんで生まれたんだ、とずっと思っていた……でも死ぬのは人一倍怖がった。

ときどき、たとえばいじめられて自殺したとか、受験に失敗して自殺したとか聞く。あれすら羨ましい。苦しみに明確な理由が求められる彼らに、私は浅はかな羨望の眼差しを向けてしまう。私はなんで、こんなに生きるのが辛いんだろう。生まれてきたくなかった、失敗だったと思うんだろう。

私はひどい凹凸を抱えて生きている。凸の部分で一目置かれるが、それはまやかしの姿だ。凹のほうが、うだつの上がらないゴミクズのほうが真の私だ。あなたは騙されている、と叫びたい衝動に駆られてしまう。

尾崎豊は私が生まれた年に死んだ。だから私は彼を知らないが、彼は生前、心理学者か誰だったか忘れたが、ある人に「あなたはその考え方をずっと続けていたら、いずれ死ななければならなくなる」と示唆されたそうだ。つまり彼の自殺にもにた不慮の死は予見されていた。私は、自分にしょっちゅうそれを思う。私は、このままではいずれ自死しなければいけなくなるのではないだろうか。ヒヤリとする。その度に、もう一度地に足をつけないといけないと思い直す。

地に足がつかない感覚、といえば、私は大学一年生の秋にそれを味わった。急性のうつ病とはあんなものらしい。あのとき私は、ふらっと車道を走る車に体を投げ出しそうになった。それはほとんど反射的だった。自殺するとき、人はそういうものなのかなと思っている。まともな神経をしていない……本気で後悔する前に、何段階も前にちゃんと考え直さないといけないんだと肝に命じて生きている。

悪く生きるより善く死ね

※記事の内容は残念ながら、タイトルとは全く関係がございません※

ネガティヴな記事ばっかり書いているなぁと思ったのですが、またネガティヴな記事になってしまいそうです。間違えて開いた人、ごめん。

私は親から経済的に全く自立していません。自分名義の銀行口座の作り方すら知らないのです。これはまずいことだと思っていますが、キャパシティが少なすぎてバイトをするところまで手が回りませんでした。一応、大学2年生から3年生にかけてやっていたんですけどね……キャパオーバーになって一年で辞めてしまいました。

経済的に自立していないとどういうやばいことが起きるかというと、行動が制限されることが一番厳しいです。私は先日縁あってとある一般合唱団に入団したのですが、そこは毎月団費として3000円が必要なほか、合宿費用や団服の費用など様々な出費が出ます。まぁ費用のかかり方は多分、学生の時のめ◯こんと似たようなもんです。団費は少し嵩むでしょうか。

大学院に入学する時、父からは「サークルには入ってはいけない。バイトもするな」と言われました。勉学に集中しないからというのが主因ではなくて、多分「メンタルを壊す可能性があるので学業に専念しろ。バイトやサークルなどをしてそちらで悩みのタネを作って鬱になる可能性を排除しろ」ということだったのだと思います。現に、私は学部時代、バイトサークル恋愛などといった学業以外の出来事で相当精神が死にました。バイト先では精神的にキツイというほどではなかった(仕事仲間はみんな優しい)ですが、悪たれ的な子どもに「20歳のおばさん」と呼ばれるのがキツかった。あと、単に体力的にキツかった。

こんなポンコツ女郎なので、私はバイトもサークルも禁止され、大学と自室の往復を余儀なくされていました(というか自分でもそれがいちばんいいと思った)。それに、財源を実質父の稼ぎに頼っているという状況で、しかも外食しかほぼしていないという甘ったれた状況で、さらにお金のかかる活動をする気にはなれませんでした。そうでなくても精神的に健康ではなく、できるだけ省エネで活動しないと死んでしまう。

それなのに、一般合唱団に入ってしまいました……勧誘が断れなかったというわけではなく、普通に合唱がしたくなったのです。20代から上は80代の人まで活動している恐ろしい構成で面白かった(こなみかん)。活動場所もまぁまぁ近いし、いいかなって思った……が、来月から団費を払わないといけないので、どうやって親に誤魔化すかを考えないと……。「今すぐ退団しろ」というほど過激派ではないと思うが、どうせ難色を示すし……というか、20歳を何年か過ぎたのに一般合唱団一つ入るにも親の顔色を伺わなきゃならない私は情けなすぎるのではないだろうか。本当に情けない……。

これまでにバイトしたいと思ったことは何度かあるが、どうしても自分に自信がないのだ。バイトを落とされたら?バイトでうまくいかなかったら?塾講師とか家庭教師?自分の知力に自信を失って早4年だ。無理無理。生徒の成績が上がらなかったらどうしよう、と思ってしまう。頭が悪過ぎて、というか気が狂って、パン屋のバイトでトングを吹っ飛ばして子供の目をついてしまって失明させて……とか考えてしまう。あ り え な い。

誰かにバイトを紹介してもらいたいという気持ちがすごくある。けど、今はまだ始められない……修論のことが不安すぎる。例によって、私は頭が悪過ぎておかしい修論になるのではないだろうか。今後永久的に語り継がれるクソ修論を書いてしまうのではないだろうか。血反吐を吐くほど頑張っても、私は大した修論が書けないのでは……と、自分に自信がなさ過ぎて、認知が歪み過ぎてこのように思ってしまう。だからほんとうに「血反吐を吐く」勢いと覚悟で挑まないと精神が死んでしまう。いや、その勢いと覚悟のせいでも精神が死ぬので、私は必ず精神が死ぬ。


いやだなぁ……

どうやって生きていくのか……

自分が弱者であることをこれ見よがしに表明して、働かなくても赦されるようになりたいとは微塵も思いたくない。

私は話し方が落ち着いているからかなぜなのか、時折「仕事ができそう」という評価をいただいてしまう。現実は、もしかしたらもともとの能力的にはまぁまぁ仕事はできたのかも知れないが、さまざまなメンタルヘルス問題が生起してきた人生だったので、「私には何にもできない」と思ってしまっている。そうなると、なにかに挑戦するには人一倍の勇気が必要になってしまった。

もっとバカっぽくなれたら、仕事ができそうだなんて言われないだろうな。一番ひどかったのは、「あなたなら専業主夫を養えそうだ」という甚だしく的外れな解釈だった。逆だ、実際のところ私は養ってもらわないと厳しいタイプの人間である。私はそんなに強い人間じゃない……だけど、現実的に専業主婦なんて許される世の中ではなくなってきている。私が婚活パーティに行って、優に一回り以上歳上の稼ぎのいい旦那を捕まえたならばむしろその人は喜んで専業主婦にさせてくれる可能性もあろうが……。それだって全く現実的ではないし絶対嫌だ。

専業主婦……そんな甘えは許されないと思う。貢献していないと思う。でも分からない、子どもがいたら、しかも2人3人とできたとしたら、むしろ兼業主婦では体が持たないだろう。

私は自分が女性であることを拒否してきた。いま私が女性としてものを言うことに違和感がある。そうではあるが、私はいろんな女性がいることを省みないで「総活躍時代」とか言っている某総理に納得できない。強い女性はいいよ、きっと適応できるよ。弱い女性は?無理だよ、私だったら多分不妊になる。

もちろんこれは男性にも言えるんだろう。ところで……男性逆差別、ってほんとにあるよね。東大の女子学生優遇の話を聞いて私はほとほと呆れてしまった。日本のトップ大学がこんな短絡的な政策に出るなんて、と興醒めした。

話を戻すけれども、ほんと政府って最近本質が掴めないような政策ばっかりしてるよね。考えれば考えるほど、息がつまるよ……。私が専業主婦できないから嫌だって言ってるように聞こえる?だって、みんな専業主婦してないのに1人だけうちにこもってられる?口だけは達者だから、仕事できるのにサボってると勘違いされながら専業主婦なんてできないですよ。まして、お金稼ぎの負担を配偶者に丸投げなんて申し訳なくてできないですよ……。どうしてこんなクソみたいな女を養うために頑張って働かなきゃならないんだ、可哀想すぎると思ってしまう。


あーあ、嫌になってきたから寝ます。


いやだな、こんな愚痴ばかりブログに垂れ流すはしたない人間になってしまった。


いじめ問題のフォーラムに行った話

大学でいじめ問題のフォーラムがあったので行ってみた。自分の研究とは全く関係ない分野なのだが、昨日知り合いの先生が教えてくれて、にわかに行きたくなった。

なぜならば、大河内祥晴さんが講演されるとのことだから。この人の息子さんは3人おられる(正確にはおられ「た」)のだが、その二番めの息子さんは清輝さんという。大河内清輝さん。この名前を知らない人も、今となっては多いだろう。私も当時を全く知らない。

1994年、愛知県西尾市で1人の男子中学生が自らを命を絶った。壮絶ないじめを苦にしてのことだった。いじめの首謀者の同級生から金銭を脅し取られ、川に沈められるなどの悪魔の所業としか思えないような「いじめ」を受け、我慢の限界に達しての13歳の自決。

いじめ自殺事件といえば、大津の皇子山中学で起きたものが記憶に新しい。あれからもう、5年が過ぎ去った。

私が大河内君のいじめ自殺事件を知ったのは、高校一年生のときだった。「オワリナキ◯クム」という犯罪データを集めて公開しているサイトがある。今となってはプライバシー保護の観点で自粛して、ページが随分縮小してしまっている(自殺者録まであり、中には遺書を公開しているものもあった)。あのブラックな感じが私は好きだった。このサイトに、彼の自殺事件が載っていた(確か2016年11月現在もその記事は残っている)。

当時15歳の私は、その記述にショックを受けた。鬱屈した気持ちになって、しばらくそればかりを考えていたことを記憶している。サイトには彼の遺書の文面まで公開されていた。それをみただけでも、彼が本当にいい子だったことが分かった。

実は私は小・中学生の時いじめられっ子だった。主にそれは男子からのいじめだった。私は場面緘黙症を患っており、不安感が強いためにいつもビクビクしていた。要するに他の児童から見れば相当挙動不審なクラスメイトだった。そこで、私は目をつけられたのである。奴らにとって私は「馬鹿にして反応を見て、笑うためのオモチャ」であった。 私は「あぁ、奴らは下等な人間なので、私というオモチャが必要なんだな。どうせ住む世界が違う、あれらは違う人種なのだから気にする必要はない」と考えていた。奴らより優れた部分があると確信していたから、私は不登校になったことがない。それでも、まっすぐな心の成長はいくらか阻害されたと思う。

惨めな気持ち、どうしようもない悔しさはよく分かった。大河内君へのいじめは凄惨だった……私が彼と同じほどの虐待を受けたら、私だって死に向かったかも知れない。いじめ被害者の気持ちが分かるだけに、私の心は痛んだ。どうか1994年にタイムスリップして、彼をいじめから救ってあげたいとすら思った。相手がどんなワルの中学生でも、腕力で敵わなくて私がボロボロにされてもいいから、どうかタイムスリップさせて欲しいと思っていた。

だから、そのお父さんの話をぜひ聞きたいと思った。お父さんの祥晴さんは、清輝さんのようにいじめ自殺に至ることを二度と繰り返さないように願って、全国で講演し、いじめ被害者と文通するなどの社会活動をされている。

私が切なくなるのは、いじめで亡くなった清輝さんを「大河内君」と呼ばないといけないことだ。生きていたら私より年上であったはずの人を、「さん」ではなく「君」と呼ばなければいけないこと。しかも、いじめに遭わなければ失われなかった命だと思うとなおさら。

でも残念なことに現実主義でペシミストなので、いじめがなくなることはないだろうと思う。例えるならば、その病原菌の根絶は無理でも、必ず治るワクチンを作ることが必要なんだろう。

フォーラムに行って、こういうことを考えたのでした。おわり。



いのちの電話とか、苦痛の定量化とか云々

いのちの電話、というサービスがありますね。

私はあれに、去年の今頃電話をかけたような記憶があります。不眠に悩まされて、ときどきゼミに出かける程度の引きこもりで研究は一向に進んでおらず、何のために生きているのかいよいよ分からなくなっていました。深夜に眠れないので悶々しているのですが、発狂しそうになる瞬間が何度かありました。

刹那的に、今すぐ楽になりたいと思うのです。

かけたんです。しかしなかなか繋がらないんです。まぁ、練炭を前にしているとか、首吊りの紐を用意しているとか、劇薬を前にしているとかいうわけではなかったんで、より「死」に近い人に電話が繋がってくれるのならその方がよい、という余裕もどこかに滲ませながら、それでもなんどもかけ直しました。

ついに、繋がってくれました。出たのは推定60代後半はいっていると思われるおじさん、いやおじいさんといっても過言ではないような声でした。なにを話したかあまり覚えていないんですが、話しても、結局は予想通りの答えしかないんです。

無償で請け負ってくれている相談員の人には感謝しています。思いを話すだけでも、幾分かマシになるのですから。しかし、やっぱり最終的には「精神病院にいけ」とか、「日光を浴びた方がいい」「あんまり頑張らなくていい」という文言が並ぶんですね。この種の電話相談は学部時代から時折お世話になっていましたが、大概そういう答えが返ってきます。

それで、私はそういう電話にかけてもどうしようもない、と思うようになりました。それでも、本当にどうしようもなくなったとき、近くに電話があればまたかけてしまうかもしれません。


あの頃と比べたら、今は相当よくなりました。時々ひどい落ち込みに見舞われるときがありますが、結構すぐに回復できるようになりました。

それでもやっぱり、生きるのがつらいことは確かにそうなんです。これは均一の尺度で測れることではないのですが、人生の苦痛は定量化できるんでしょうか?私は苦痛が大きい方です、これは間違いないんでしょうけど、果たしてどの程度平均をはみ出して苦痛なのか。

同様の理由で、「幸福度」というのも蓋然性に疑問があります。北陸の幸福度って高いんでしょう?出身者としては全然そうだと思わないんだけど。あれってどういう風に調査しているのかよく知らないので勝手に批判を加えることは慎むべきなんだろうけど。

だけどさ、都市部の方が幸福度が下がるのはそうだと思うよ。人が密集していると、人との交わりが希薄な割にはたくさん出会うことになる。そうすると、よく事情も知らないで比較する対象が増える。「嫉妬」という感情は相手と自分を比較するから生まれます。嫉妬すると幸福ではなくなります。ただでさえごみごみした都会で辟易するのに、さらに他人と比べてご覧よ……嫉妬心が生まれてご覧よ……考えただけで息がつまるようだ。

逆に考えるんだ。田舎の幸福度が高いのは、文字通り「井の中の蛙」だからだ。こうやって考えたら、北陸の幸福度が高いっていうのも大層眉唾な話だなと思うんですね……。


さすがに寝ないと明日の発表へろへろだな。すでにとっくに今日だよ。