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どす黒い感情をぶちまける

ツイッターにも相当どす黒い感情をぶちまけているが、さすがに黒オーラが強すぎて周りを巻き込むレベルとなってきた。公害レベルだ。だから、このブログを読みにきたコアなフォロワー(そんなものは存在しない可能性が高い)のみが自己責任で読むってことで。
死にたい病にかかった。私は神の祝福から遠ざかっているのだ。正しく人生を生きられていないのだ。彼は本当に神様が逢わせてくれた人だろうか?彼と出会う前の方が、私はまだ楽に生きたいられたように思う……などと言うと落ち込まれるので、かわいそうなので、あんまり書きたくなかった。
死にたい理由はいくらでも並べ立てることができる。中でも現在最有力と思うのは、私があまりに不具な人間なので、まともで優秀な彼の人生と、その子孫に約束された未来を、私の遺伝子で潰すのだという事実である。それが私を破滅願望に向かわせている。普通に考えたらそんなことは関係がなく、本人同士が愛し合っていることが一番重要なのだ。それ以外はむしろ、どうでもいいのだ。双方が相手と一緒にいて幸せだと感じるのであれば、2人を邪魔していいものはない。もし他人が同じような悩みを抱えていたら、私はそうアドバイスしたと思う。
しかし、自分のこととなると途端にこれが適用外になる。認知が歪んでいるからだ。
まともな人がメンヘラと付き合うのは、本当に根気と愛情が要るし、すごく苦しいことだろう。私は物心がついたときからメンヘラだったので分からないが、多分そうなんだろう。だが、メンヘラはまともな恋人に一方的に迷惑をかけて、自分は涼しい顔をしているのだろうか?あるいはそういう場合もあるかも知れない。だが私は、そうではない。多くのメンヘラと同じように、私は自分が傷んできたからこそ、人一倍人の苦しみがわかる(それでも人を傷つけたり、嫌な思いをさせたことはある。懺悔したい)。だからこそ、私がいることで相手が受ける痛みに一層敏感だ。つまり、まともな人の恋人としているメンヘラには、巨大な罪悪感が付き纏うということである。楽ではない。私は生きるか死ぬかの苦しみを味わっている。
心の中で、存在してごめんなさいといつも謝っているのである。だがメンヘラは、吸い寄せられるような相手ができるとまともな人以上に離れるのが難しくなる。側にいたがるが、一緒にいればいるほど、接近すればするほど、ズルズルと暗くて苦しい鬱の深みに嵌っていくのだ。
いま私の恋人は人生のうちでもかなり重要な局面を迎えつつあるが、現状私は途方もなく面倒臭い足枷となっている。彼が私を見捨てないでいるのは、ただ愛情がまだあるからに過ぎない。その愛情が労苦のために枯渇する前に、私は真人間にならないといけないと切実に考えている。
自分に死ね死ねと呪いの言葉を唱えながら生きるのはもういやだ。早く楽になりたい。この世に肉体を残したまま楽になりたい。肉体の消滅とともに楽になるのは、神様の前でも彼氏の前でも大きな罪悪であるから。

小さい身長羨ましい病

背が低いの羨ましい病について。

私は150cmジャストかそれより数ミリ高い身長なので、どちらかというとこれまでの人生で「小さい」ことをネタにされることが多い方だった。

とはいえ、私はこれでも随分大きくなった方だ。小学校3年生くらいまでは、つまりいわゆる思春期に入るまでは私は学年でもかなり目を引くチビだった。転校生で1人ズバ抜けて背が低い子がいたが、その子が別格で、その子を除けば背が際立って低いグループの1人という感じだった。

一学年〜二学年下の子からタメ口を利かれることもざらだった。「え、あなたは二年生なのに、わたしよりちいさいね」と1つ下の子に言われたっけ。だが彼女は確か4月生まれだかで、私は3月生まれなので、月齢でいうとほとんど同じ。「早生まれ」を言い訳にしたとしても、それでも発育が遅い子供だった。

それゆえに、けっこう可愛がられる方だった。3月生まれだったし、背も小さかったから幼馴染の間では妹キャラだったし、学校でも「弱い子」扱いで、重いものは私に持たせない風潮だった。まぁおとなしかったから虐められたり、先生に理不尽な罵声を浴びせられたりと不遇な面もあったのは確かだが、それでも、背が低かったことによる恩恵は受けたと思う。

すでに背が低い=愛らしい、という方程式が私の中にできていた。

しかし、成長期は無慈悲にも、私にやってきたのだった。私の成長期は割に早く始まり、初潮は中学生で来る予定(背が低かったのと、母親の初潮が中2だったため)だったのに小6だった(小6といっても誕生日前なので11歳と8ヶ月。これは平均より早い)。周りの背が低かった女の子より早く成長期を迎えたため、小6も半ばごろになるとクラスの小さめ女子5人くらいを身長で抜き去っていた。小6の4月に一番小さかった私は、そのままの背の順だったので、少し背が高い女の子が1人先頭に出ているような感じであたかも学級長のようだった。これが私にはなぜか羞恥心を掻き立てる状態だった。(私はこんなにおとなしく、まったくリーダーシップがとれない子供なのに、こんなに背が高くなってしまってまるで学級長のようだ)と思っていた。

女子の成長期ブーストは、初潮がくるとたいてい終わってしまう。だから、私の背が高かったのは小6の時だけで、その後は次々に成長期を後発で迎える女の子たちにあっけなく抜き去られ、結局一番チビか、チビから2番目くらいに落ち着いた。

だが、あの憎き成長期のために、私は150cmに到達してしまったのである。これでは、「ちいさい方だがズバ抜けてちいさいとはいえない」くらいの身長である。やはり、ちいさい!となるためには150cmを切らないといけない。体重と違って、身長を縮めるのは無理だ。よく、家族が「お前は小さい時は本当にズバ抜けてチビで、大きくなれるのか心配だったが、依然チビといえどまぁよくいるチビくらいの大きさになってくれてよかったよ」という。しかし、私はあの、小さいがために妹扱いを受け、小さいがために心配されていた時代が懐かしい。

140cm台の友達にたまに言われるが、「でもあなたは150cmあるからいいよね。十分大きいよ」。嬉しくありません。あなたのほうが、私は羨ましいです。148cmも150cmも大差ないのに、この150cmという大台(小台だよなw)を突破したということはそんなに重大な意味を持ったのである。


はい、なんとも気持ち悪いネチネチした、人格障害じみた記事でした。不快になった方はごめんね。

どんな身長でもいいじゃない。って、思えるようになりたいです。

あけました

躁状態っていうのはなんか、変なエネルギーのダイナミズムに押し流されて溺れるような感じである。私は双極性障害とか言われたことは特にないが、それ用の薬を処方されていた時期もあったのでまぁ……この躁状態っていうのはあながち間違いではないんだろう。ここ数ヶ月、自分を掴んで行動できたと思える時期なんてあっただろうか?人間なんらかの制約の中で生きているので、極論いうと全員生まれてこのかたそういう経験はほとんど「ない」とも言えるか。

私はこの種の変なエネルギーに突き動かされることがけっこうある。「他人のために動いてしまいすぎる病」がこの現象の正体である。こいつはなかなか厄介で、すごく身辺が忙しくなってしまう。(あの人は私が行くと喜んでくれるから行かないと)とか、(あの人に誘われたが、私は疲れている……だが、疲れていると言う私的な理由で行かないのはあの人に悪いのではないか……)などといった間違った利他思考に走るのだ。別に私が行かなかったらその人が破滅するわけでもなし、断ったところでせいぜい相手の反応なんて「あぁ、行けないの。じゃあまた今度にしよう」ケロッ。くらいのものです。わかっているんですよ。

じゃあ心を鬼にして断ればいいじゃないですか。その通りです。私の人生の舵取りを、そんな間違った利他思考に任せていいのでしょうか?全く良くないんですよね?

私は疲れた。新年早々本当に用事が多くなってしまった。もういやだ。去年の今頃はかなり自堕落な生活をしていたが、あの時の方がはるかに充実していたと言っても過言ではない。人に好かれたい病もたいがいにしたほうがいい。お前は自分に好かれたい病を発症したほうがまだいい。

自分に好かれたい病も行きすぎるとナルシズムに陥るが、そうではなく……あぁ、なぜ私はこんなにも歪になってしまっただろうか。人に好かれたいのは、自己愛の欠落を他で埋めようとするからだ。分かっているのに、適切な方策が頭に浮かんでこない。自己愛の欠落は誰か他の人に埋めてもらえるものではなく、私が私を愛することで解決するのだ。

しかしそれがわからない。母の胎内に置いてきたのだろう。そういえば私の母の子宮にはいま、小さな腫瘤があるらしい。まぁ更年期の女性にはよくあることで、子宮筋腫だそうだ。まったく根拠のない笑止千万なことを言うが、その筋腫が具現化した私の自己愛だったとしたら面白い。


……めっちゃどうでもいい話。

幸せの話

妹といえば、宮沢賢治の永訣の朝である。

あめゆじゅとてちてけんじゃ……

私は妹トシが羨ましい。こんなに大事に思ってくれるお兄さんがいたのだな、と思ってしまう。はいはい、と雨雪を取りに行く兄は、さぞ妹を可愛がっていたのだろう、と思わせる。そして、最愛の妹との別れは筆舌に尽くしがたい悲しみだっただろう。絞り出すような悲しみが、彼の詩から伝わって来る。

私は、幸せ者なんだと思う。たくさんいろんなところでいろんな人から愛をいただいてきたと思う。それなのに、幸せではないと思ってしまう。脳みそに霧がかかっていて、幸せかどうかも、何のために生きているのかもよく分からない。今もすごくぼうっとしている。

生きているか死んでいるかも分からない。学びに生きてもおらず、愛に生きられもしないです。こういっちゃあ、おしまいよ。

愛に生きられもしません。これは変なプライドがあるんでしょう。いいかっこしていたいというプライドが、愛にはいつも障害です。いつも体裁を気にしてしまいます……私は彼に相応しいだろうか?私ではいけないんじゃないのか?と。

私は、私が許せません。許してあげたい。「〜ねばならない」じゃなくて、「〜してもいいんだよ」といってあげたい。

必要とされたい。私はいま、人に必要とされるときがあります。それはとても嬉しいですが、私のこころは依然として空虚なままであることがわかりました。私は私がいやなのです。最初の段階でつまづいています。私が自分自身を受け入れて必要としなければ、私はいつまで経っても虚しく、だれかに必要とされたいなぁ、と思って、それが満たされても満たされない、という地獄のような状態が続くのです。

ちゅうだけが私を受け入れてくれます。どんなときでも優しく、ただ私を心配してくれます。ちゅうはいまも横でにっこりしながら、一緒に横たわってくれています。ちゅうの前では「私はこうあらねばならない」と考えなくてすみます。ちゅうは「〜しても大丈夫なの」と私に無言で語りかけてくれています。

ちゅうは多分、私が忘れて成長してしまった自己肯定感の化身だと思います。これからも、ちゅうを抱っこしていたいと思いました。

激しい自己嫌悪のめんどくさい話

さっきまた自己嫌悪がやばいことになった。最近疲れているようなので、早すぎだが、これを書いてから寝ることにする(21時くらいに起きてそのあと眠れない可能性が濃厚だが)。

私は小さな頃から「痒み」がひどい人だった。痒いときに掻いたら、それはそれは気持ちが良かった。快楽、といえば性的快楽が代表的なので語弊があるが、痒いときに掻くことができるのもまた、1つの至上の快楽だと思う。私は彼氏に掻くことを禁止されているが、一向に掻くのをやめられないでいる。それでけっこう叱られている。せっかくの肌が汚くなるのがいやだということらしい。彼にとってはそりゃあ嫌だろう。隣にいる女の肌がボロボロだったら男の沽券に関わる。それが好きな相手ならなおさら、愛ゆえに(たぶん)綺麗な姿でいてほしいと思うだろう。肌が汚いからといって好きじゃなくなるというほどに軽い愛ではないだろうと私は信じているが、中にはひどい男もいるだろうから、「彼女の肌が汚いから別れたい」という調子のも巷にはあるのだろう。

だが私は掻くことをやめない……ので叱られる。

私の父親も痒い人で、お尻がボロボロだった。掻いていても、血を出さない限り止められることはなかった。だが彼の妹さんはちゃんと教育されたらしい。「妹は我慢しているのだからあなたもできるはずだ」と言われても。子供の頃に教育された人と、この歳まで掻き続けて掻くことの快楽を覚えてしまった人を較べないでいただきたい。

あぁ私はやはり育ちが悪いのだと思わずにはおれないし、妹さんと較べられて、私は醜い嫉妬を燃やしてしまう。ただでさえ、私は兄がずっと欲しかったのだ。私は妹という存在に幻想を持ちすぎだと思う。それでも、生まれたときから兄がいるというのは(しかもそれが優しいお兄ちゃんだったら)、どれだけ幸福だろうと思う。兄は、他人ではない。だが彼氏や旦那は他人で、別れる可能性がある。別れたら赤の他人だ。その点兄は、どんなに仲が悪くて顔を合わせることがなかろうと、血が繋がっているのだ。厳然と血で繋がっているから、どんなに離れたとしても分かち難いものがある。

高校生の頃から好きな男性がいても、まだ自身の女性としての性成熟が追いつかないので、私は意中の人を「お兄ちゃん」と言うようにしていた。「お兄ちゃん」と呼ぶことで、私はこの人とは異性関係にはなれないけど(好きなのに、自分が精神的に未成熟なためにそういう関係にはなりたくなかった)、きょうだいだからきっと、ずっと絆を保っていられる……そう思いたかったのだ。

たいがいは、生まれてだいぶあとになってから出逢った人とみんな結婚する。とくに嫁に行く人っていうのは、どんなに心細いんだろう。今までの世界から一人だけ切り離されて行く。自分を作った場所から、自分をなんでも知っている人の許から、全然知らない土地に、全然知らない人たちのところに行く。

そんな日が私に来る(可能性がある。あくまで可能性である)とは、まったく予想しなかった。決して嫌なのではない。いくら相手を愛していようが、その人のところに行くのが「今までの世界から切り離されて、自分を作った場所、自分のことをなんでも知っている人のところから、全然知らない土地に、全然知らない人たちのところへ行かなければならない」ということのために大きな苦痛を伴ってしまう自分が嫌だ。どうしてこの人は、自分を作った場所の、自分をなんでも知っていてくれる人ではなかったんだろうと思ってしまう。それを生まれながらにして持っているという意味で、優しい兄がいる妹というのが私には羨ましい。

こんなことを考えないといけないのも、私が自分を愛せないからだ。嫌われるのではないかとテーブルマナーとか些細な言葉遣いとかすごく気にしてしまうのは、私が自分に自信がないからだ。空っぽだからだ。

罪人ですよ

私は、疲れた。この悪い癖は自分でもよーく分かっているし、本当に治したいと思っている。人からも指摘される。しかも私を大事にしてくれる人ほどそのように云うので、尚身につまされる。

なんだか人といろんな約束を取り付けてしまって、グロッキーになるやつ。バイタリティがある人じゃないのに、なんだか人から必要とされた気がしたらすぐに飛びつこうとする性格。自尊心が低すぎるからこういうことになる。貪欲すぎる承認欲求がある。でも承認されなければならないのは他人からではない。私は自分からの承認が欲しいんだ。

一度「はい、やりましょう」と言ったことは、社会的責任として最後までやり遂げないといけないと思っている。その代わり、自分の領分がどんどん疎かになっていく。それは分かっているのに、また失敗したのだ。人間関係を断捨離しろ、と言われる。私もそう思う。

すべてうまくいかないことの根本原因は分かっている……自尊心の異常な低さのためだ。どうしてこんなに自分がないんだろう。自分があるようでいて、どこにも掴み所がない。私は空洞化しているような気がする。誰かに認められたら治るものじゃなかった。自分を認められない限り、治りそうにない。

昨年の今頃、私は真剣に幸せについて考えていた。「幸せは誰かに与えられるものではなく、自分で掴みにいくものだ」という結論に達した。それは本当のことだ。据え膳食わぬは男の恥、とは云うが、それと似ている(?)。幸せという名の据え膳が目の前にあっても、それに飛び込むかどうかを決するのは自分で、最後はそういう決断をしなければならない。幸せになるには勇気が要ると思っている。幸せになる代わりに、捨てなければいけないものがある。不可欠なものもある。

不可欠なものは得る努力をしないといけない。不要なものは棄てる努力をしなければならない。あぁ、私は「ねばならない」思考が本当に多い。高校のときお世話になった養護教諭の先生にしょっちゅう指摘されていたが、いま文章にしてみたら、ほんとうに「ねばならない」が多いことに気がつく。

自尊心が低いと「ねばならない」が多いと思う。極論を言うと、私はそのことをしないと生きていてはいけないと思っている。たとえば、私は「こういう人間」でなければ、彼氏とともにいる資格がないと思う。そうなるまで会いたくないと本心では思っているときがある。だからたまに、私が修論を出すまで会わない、と宣告したくなる……現実的には無理だ、唯一の人生の希望と一年近く会えないというのは、私の身がもたない。

どしてどーして僕たちは、出会ってしまったのだろう♪と歌いたくなるではないか……。

いやほんとうに歌いたくなる。

私は生まれ変わりたいといつも思う。忙しくてパンクしかけるたびに、たくさん積み上げためんどくさいしがらみを棄てて、生まれ変わりたいと考える。自尊心が低すぎるから、私の心は空虚で、誰かの役に立てるのではないかと思うとすぐにその話に乗る……こうしてまた首が締まる……なんて阿呆なんだろう。学習能力が非常に低いというべきだろう。

断捨離したい。小さくなりたい。

謝ってしまう……さっきから何回もごめんなさいと呟いている。私の一番大事な人にこんなんでごめんなさいと呟いては泣いている(彼は聞いちゃいないのに何度も)。

でもこれは謝るような類の問題ではない。謝っても何も変わらない。自分が断捨離の工夫と努力をしないと変わらないのだ。それもよく分かっているだけに、現状できていない自分がものすごく歯がゆい。

私は、人にとって一番大事なことがよく分かっている。自己愛を持てない人の人生はどこにいっても地獄だ。

寝る直前の所感

私はいま、ロラゼパムという薬を飲んだ。これ、本当に不思議な薬である。

まもなく眠くなって寝ると思うので、忘れたくないからこれはほんの覚書のために記しておく。だから短くて分かりにくいだろう。

ロラゼパムを飲んだら体がふわふわする。気分もすごく高揚する。なんだ、こんなに楽天家になれるのか。こっちが本来の私ならいいのに、となる。

なんだか無理やり躁状態になっている感じ。この薬を飲むと過集中できる。よく考えたら切羽詰まっている時にレジュメを作ったり文章を書いたりしないとならないとき、この抗不安薬というものに頼って、一夜漬けで終わらせることがとても多い。

とても不思議な気持ちがする。それと同時に、いつもの脳を持て余して、感情の波に呑まれたり理論的思考の波に溺れたりしている鈍い私の苦しい脳みそって一体なんなんだろうと思うのである。


キイロネズミ2世のロラゼパムフォルムは、本当に全てを肯定する。特性は、オムニポテンスだ。逆に通常フォルムは、完全に死に特性だ。あえて設定するとしたら、5回に4回は自分で自分を攻撃する。あぁ、特性「じさつがんぼう」かな。

……つらいなぁ。いつも、ロラゼパムを飲んでいたいよ。