見えないこころのへその緒の話

私は親から精神的に自立していないので、認知の歪みが親に適用されてしまう。自己肯定感が低い……こう言ったときの「自己」の中に、両親が組み込まれてしまうのである。

であるからして、両親が側から見て普通に立派?な人である可能性がある程度にはまともな人たちであるにもかかわらず、私の中では「うちの親はダメである。ダサい」などと考えてしまっている。これは大変親不孝であるし、間違いなくドラ娘の烙印を押されること請け合いである。

たぶん精神的へその緒、っていうのがあるんだろう。「親を尊敬しています!」っていう人がいるが、こういう人は、精神的へその緒が切り離されていて、「親」と「自分自身」が対等で、別個の人間同士としての関係が結べている。このへその緒が切れるということは、大学生以上くらいの人間の発達課題だと思う。

それに比べて、私はてんでダメである。認知の歪みが親に適用されるということは、親と自分が不可分になってしまっているということだ。しかし、「親ができる人で、自分ができない」の場合と「親ができない人で、自分ができる」の場合では気の持ちようが変わるような気がする。現状では前者に近い。「親はまぁまぁできる人」だと思う。それなのに、親=ダメ、ダサい。となっている。では後者は、というと、「自分ができる」ことから、自己肯定感が高く、認知が歪んでいないかも知れない。よって、親に認知の歪みが適用されるという事態もない。

したがって、私はつまり「自分ができないが故に自己肯定感が低く、認知が歪み、両親にそれが適用されている」ということなのではないか。ということは、私ができる人間であれば、「親ダサい」問題は解決するのかも知れない。そうなれば、現実は「親はまぁまぁな人で、自分はできる人」となり、卑屈になるようなことはまずないだろう。

ここまで考えてくると、彼氏の両親はかっこいい(彼氏のご両親はできる人で彼氏もできる人)が自分の両親がダサいことで悩む問題は、ただ私ができる人間になり、少しでも自己肯定感を高く持つことで随分いい方向に解決されるのではないだろうか?と思うのである。


しかし自己肯定感を高く持つこと自体が、「それができたら精神科は要らない」と思えるほどにハードルの高いことであり、ここまでわかったところで何ら嬉しくもなんともなく、アハ体験なんてもってのほかなのである……。

自己肯定感を忘れて成長した人って、つらくない?


追記。

そもそも、この歳で親がカッコいいかダサいかで悩む時点で相当おかしいと思わなければならない。親は親、自分は自分。大人であり、自分の人生という船出をとっくにいたしているわけである。私はまだ船出の場で、見送ろうとしている両親に無邪気に話しかけ続けている精神遅滞の娘のようだ。

精神が病んでいる人の内省

今回も私、つまり精神に問題がある人の話です。

私は、高校生の時に同じ部活の女の子に執着していました。私の自覚的な精神病歴は高校時代に始まっています(無自覚なものは小学生以前からあると思われる。場面緘黙症など)。その子のことはMちゃんとしましょう。彼女はとても成績が優秀で、あまり群れたりしない子でした。一匹狼という言葉がよく似合うタイプで、かなり男勝りなところがあり、思春期の女の子が陥りがちな性倒錯の誘因となるにはぴったりの逸材でした……少なくとも、私にとっては。

私は当時同性愛というものをよく知らず、そういうのがあるらしいという曖昧な認識をしていました。Mちゃんは当時、自身がレズビアンであると認識しており、私に同じ空気を(なぜか)感じ取ったらしく、高校入学からさほど経たない時期にカミングアウトしてきたのでした。今思えばその同じ匂いというのは、女子の発達障害という共通点から出てきたものであって、別にセクマイであるという点で同じ空気をまとっていた訳ではない、と今では断言できる。

その時から、私は彼女がなんとなく気になりました。私とMちゃんは最初期のころは大変ウマが合う2人のように見えたし、本人たちも多分「こいつと話すのは楽しい」と認識していたはずです。「2人は同じ中学でしょ?え?違うの?仲がいいから、出会ったばかりの2人には見えない」と先輩に言われたりしていた。当初は楽しかった。私の境界性パーソナリティ障害が火を噴くまでは。

彼女は私の前で屈託無く笑う。その笑顔は、私以外には見せないものだ(本当は仲の良い相手なら見せる可能性がある。ただ彼女が孤高の一匹狼のように振舞っていたのであまり見なかっただけ)。そう思い込み始めた私は、同時に彼女のことを好きなのだと思い込んだ。Mちゃんがレズビアンであるというカミングアウトをしていたことも好都合に解釈し、「私と彼女の間には他の人には割り込むことのできない絆があるに違いない」などと思うようになっていた。はっきりいってキモい。

なんか、こういうのがこじれて、二、三年前の佐世保女子高生同級生殺人事件、みたいになるんだろうなぁと思わずにはおれない。正直あの、加害生徒である「もなみちゃん」という女の子のことが私は気にかかる。

おいといて。

まぁこういう感情になったころ、私の境界性パーソナリティ障害のスイッチが入ったのである。スイッチが入る過程はあまり詳しくは覚えていないが、とにかく彼女に会えると思うと、そんな日には胸がキュッとなり、会えた時には世界が輝いて見えた。彼女は私より成績が良かった(Mちゃんはトップクラスで、T大に行った。私は上の下くらいだった)。なので私は焦りを感じていた……なぜか私には、★運命の2人は崇高なつながりで結ばれており、生い立ち、能力などが対等でなければならない。という謎ルールがある。このルールは境界性パーソナリティ障害でよく言われる「ターゲット(依存相手)」にしか適用されない。他の人が自分より優れていても、「すごいなぁ」と普通に思うだけ。★したがって、私が彼女と同じくらい成績が良くなければ、私はMちゃんと結ばれることは許されない。などと考えていた。

些細なことで私とMちゃんの生い立ち(これは親の学歴や仕事のかっこよさ、年収、家の綺麗さなど。なんやねん)や能力に差があると思ってしまうと、めちゃくちゃ精神不安定になった。彼女が私以外のお友達と楽しそうにしていると、私は文句を言う。

はい、ウザいこと極まりないボーダーメンヘラの出来上がり☆めでたs……くない。

こんな調子なので、私は次第にMちゃんに嫌われていき、しまいには話しかけただけで暴行を喰らうまでになりました。私は被害者ヅラしていましたが、立派な正当防衛だったんでしょう。これがきっかけでうつ状態になり成績も落ち、被害者ヅラして保健室登校していた自分が情けない。被害者はどっちだよ、と言いたい。


さーて、現在の彼氏に当てはめてみよう。

これが驚くべきほどに合致する。だめだ、まるで成長していない。

なぜかMちゃんと彼氏が似ている……顔と生育環境(お父さんとお母さんの職業が大体同じ。父文系母理系同じ。ただお父さんがスパルタタイプかそうでないかの違いはありそう。その点Mちゃんはしんどそうに見えた。実際、彼氏は研究を続けたが、Mちゃんは大学に入ってから学問への情熱を失った。親の評価を気にして勉強していた反動だと思う)。

違うのは、まだ10代の高校生だったMちゃんに比べて、20代後半の彼氏の方が度量が大きいと言うこと(Mちゃんには本当に悪いことをした。彼女は別に悪くないし、度量が狭い訳では決してない。あんなことがあっても、今でも連絡したら返事をくれるいい子である)。★のルールが崩されるようなこと(親の仕事のかっこよさの落差とか学歴の落差とか、院生同士なので研究できる彼氏に比べて研究に打ち込めないカスメンヘラな自分とか、人格形成がまともかそうでないかとか)があると鬱になりめんどくさいことを言い出したり、些細なことで自分が愛されていないと思い始めて喚いたりするボーダーメンヘラの私を「かろうじて」受け止めてくれている。しかしかろうじてである。こんな理不尽なことでぐちぐち落ち込む彼女の世話なんて強いられたら、いつ彼氏だって心のダムが決壊するか知れない。だめだ決壊させてはならない。そこは私のバランスの取り方にかかっていると思う。まずは自分の心のダムを増強しないとならない。メンヘラボーダー女を徐々に卒業していきたい。


……ということをダラダラと述べておいてアレだが、ほんとに行き当たりばったりで文章を書いて読みにくくて悪いといつも思う。そして、こんな記事を読むのはコアなキイロネズミファンかヲチ目的の人くらいだろうから、まぁいいやと開き直っている。


おやすみ(朝)。

鬱屈

大学に行く途上でうつ状態に入ったので、研究室に行くのを躊躇って休憩スペースに座った。

どうしてこうもジサツしたい気持ちになるんだろうか。実際にはやる勇気がないのにジサツ願望があるのだ。やる勇気がない願望。エア希死念慮である。1番めんどくさいやつだ。「ま〜ん(笑)」という言葉が私は頗る嫌いだが、まさしくこう揶揄されても仕方がない状態だ。

いまなら祖母がよく言っていた「身の丈にあったことをしろ」ということが、実は間違ってはいなかったとわかる。いや、そう言われて育ったので「身の丈」が随分成長を阻害されて、のびのび育ったらできたはずのこともできなくなっているのだろうから、正しい教育ではないと思う。絶対に。

しかし、今となってはもはや、「身の丈にあったこと」がよく分からない。現状では、学歴だけが妙に突出してしまっている。そのせいで無駄にプライドが高い無能となってしまった。祖母は多分、地元の高校を出てせいぜい地元の地方国立に入って(これでも相当すごいと私を褒めそやしたであろう)、地元の中小企業か役所にでも務めて、適当な年齢で見合い話でも来て「相応の人」と結婚するというのを期待していた。いまは、身の丈に合わない大学、大学院に行って、身の丈に合わないエリート家庭のエリート息子(ハイスペック)になぜか見初められたという状態にある。彼氏は顔だけで私を選んだというのが私の中で定説となっている。なんだこれ、なんのために大学院まで来たんだろう。絵に描いたようなま〜ん(笑)じゃないか。私が最も忌避するような人種に自身が成り下がっているという事実に笑ってしまう。

そして「身の丈にあってない彼氏と結ばれるのは罪だ……」という、誰も幸せにならない思い込みをして、鬱になっているのだ。なんのために生きているのかいよいよ分からない。女だもの、生物として、自分の伴侶を選ぶのに精一杯で当然よね!なんていうま〜ん(笑)。恥を知れ。

身の丈とかいう毒祖母ワードに私は縛り付けられている。そして、その毒祖母に育てられた叔母もその思想に染まっており、「キイロネズミちゃんは勉強を頑張らなかった方が幸せだったね、スペック低いんだから」みたいなことを言う。ほんとうに死にたい。

底辺メンヘラ、依存する

私は精神が健全ではない人間なのだが、特に病名がない。それに、○○病です。と言うのはなんだかど直球すぎて重いと感じられることもありそうなので、ざっくばらんに「メンヘラ」と表現している。ゲイの人たちが自分のことを「ホモ」と言ったり、MtFの人が「オカマ」と表現したりするのに似ている(レズ、おなべも)。

私は「好き」だから彼氏と一緒にいるのだろうか……と考えることがある。たぶん、私の彼氏と一緒にいたいという衝動は、「好きだから一緒にいたい」という健全な次元に属していない。もっと不健康な理由で、「依存」と言うべきようなものだ。

「好き」と言った場合、相手の言うそれは文字通りなのだが、私が言う「すき」というのは、「見捨てないでね」とニアリーイコールである。これは由々しきことだと思っている。出会ったばかりの頃はまだ依存状態になかったから、あれは明確に「好き」だったと思う。今はどうかというと、「好き」の前に依存しているので、自分の本当の気持ちはどうか分からない。一緒であれば幸せというだけならいいのだが、彼について言えば、余計なことを気にしてしまって私が1人でうつに入ってしまうこともしょっちゅうである(釣り合わないのではないか?私は劣等人種だからダメではないか?あちらのご家族に反対されるのでは?など)。

依存というのはロクな状態ではない。私は過去に、一度だけ友人に依存したことがある。そのとき、私を背負いきれなかった友人は堪忍袋の緒が切れて、私を構ってくれなくなった。拒絶されるようになった。今、彼氏はなんとか耐えているが、昨日のようにろくでもない内容で私が機嫌を壊して、うつルートに入ることが今後頻繁にあったとしたら、私たちの関係は崩れるのではないだろうか。

私はろくでなしなので(認知の歪み)、彼氏の素晴らしさの前では自分が恥ずかしくてどうしようもない。親には悪いが、あらゆる意味で生まれが底辺なのでそれも鬱だ……底辺というのはこれも認知が歪んでいるのだが、ほんとうに全ての人が私より上に見えてしまう病気にかかっている。

本当にゴミで、生きていて申し訳なくなる。彼氏に依存するようになるまでは、ここまで自己卑下することもなかったのに。自分がめちゃくちゃいやだ。

どす黒い感情をぶちまける

ツイッターにも相当どす黒い感情をぶちまけているが、さすがに黒オーラが強すぎて周りを巻き込むレベルとなってきた。公害レベルだ。だから、このブログを読みにきたコアなフォロワー(そんなものは存在しない可能性が高い)のみが自己責任で読むってことで。
死にたい病にかかった。私は神の祝福から遠ざかっているのだ。正しく人生を生きられていないのだ。彼は本当に神様が逢わせてくれた人だろうか?彼と出会う前の方が、私はまだ楽に生きたいられたように思う……などと言うと落ち込まれるので、かわいそうなので、あんまり書きたくなかった。
死にたい理由はいくらでも並べ立てることができる。中でも現在最有力と思うのは、私があまりに不具な人間なので、まともで優秀な彼の人生と、その子孫に約束された未来を、私の遺伝子で潰すのだという事実である。それが私を破滅願望に向かわせている。普通に考えたらそんなことは関係がなく、本人同士が愛し合っていることが一番重要なのだ。それ以外はむしろ、どうでもいいのだ。双方が相手と一緒にいて幸せだと感じるのであれば、2人を邪魔していいものはない。もし他人が同じような悩みを抱えていたら、私はそうアドバイスしたと思う。
しかし、自分のこととなると途端にこれが適用外になる。認知が歪んでいるからだ。
まともな人がメンヘラと付き合うのは、本当に根気と愛情が要るし、すごく苦しいことだろう。私は物心がついたときからメンヘラだったので分からないが、多分そうなんだろう。だが、メンヘラはまともな恋人に一方的に迷惑をかけて、自分は涼しい顔をしているのだろうか?あるいはそういう場合もあるかも知れない。だが私は、そうではない。多くのメンヘラと同じように、私は自分が傷んできたからこそ、人一倍人の苦しみがわかる(それでも人を傷つけたり、嫌な思いをさせたことはある。懺悔したい)。だからこそ、私がいることで相手が受ける痛みに一層敏感だ。つまり、まともな人の恋人としているメンヘラには、巨大な罪悪感が付き纏うということである。楽ではない。私は生きるか死ぬかの苦しみを味わっている。
心の中で、存在してごめんなさいといつも謝っているのである。だがメンヘラは、吸い寄せられるような相手ができるとまともな人以上に離れるのが難しくなる。側にいたがるが、一緒にいればいるほど、接近すればするほど、ズルズルと暗くて苦しい鬱の深みに嵌っていくのだ。
いま私の恋人は人生のうちでもかなり重要な局面を迎えつつあるが、現状私は途方もなく面倒臭い足枷となっている。彼が私を見捨てないでいるのは、ただ愛情がまだあるからに過ぎない。その愛情が労苦のために枯渇する前に、私は真人間にならないといけないと切実に考えている。
自分に死ね死ねと呪いの言葉を唱えながら生きるのはもういやだ。早く楽になりたい。この世に肉体を残したまま楽になりたい。肉体の消滅とともに楽になるのは、神様の前でも彼氏の前でも大きな罪悪であるから。

小さい身長羨ましい病

背が低いの羨ましい病について。

私は150cmジャストかそれより数ミリ高い身長なので、どちらかというとこれまでの人生で「小さい」ことをネタにされることが多い方だった。

とはいえ、私はこれでも随分大きくなった方だ。小学校3年生くらいまでは、つまりいわゆる思春期に入るまでは私は学年でもかなり目を引くチビだった。転校生で1人ズバ抜けて背が低い子がいたが、その子が別格で、その子を除けば背が際立って低いグループの1人という感じだった。

一学年〜二学年下の子からタメ口を利かれることもざらだった。「え、あなたは二年生なのに、わたしよりちいさいね」と1つ下の子に言われたっけ。だが彼女は確か4月生まれだかで、私は3月生まれなので、月齢でいうとほとんど同じ。「早生まれ」を言い訳にしたとしても、それでも発育が遅い子供だった。

それゆえに、けっこう可愛がられる方だった。3月生まれだったし、背も小さかったから幼馴染の間では妹キャラだったし、学校でも「弱い子」扱いで、重いものは私に持たせない風潮だった。まぁおとなしかったから虐められたり、先生に理不尽な罵声を浴びせられたりと不遇な面もあったのは確かだが、それでも、背が低かったことによる恩恵は受けたと思う。

すでに背が低い=愛らしい、という方程式が私の中にできていた。

しかし、成長期は無慈悲にも、私にやってきたのだった。私の成長期は割に早く始まり、初潮は中学生で来る予定(背が低かったのと、母親の初潮が中2だったため)だったのに小6だった(小6といっても誕生日前なので11歳と8ヶ月。これは平均より早い)。周りの背が低かった女の子より早く成長期を迎えたため、小6も半ばごろになるとクラスの小さめ女子5人くらいを身長で抜き去っていた。小6の4月に一番小さかった私は、そのままの背の順だったので、少し背が高い女の子が1人先頭に出ているような感じであたかも学級長のようだった。これが私にはなぜか羞恥心を掻き立てる状態だった。(私はこんなにおとなしく、まったくリーダーシップがとれない子供なのに、こんなに背が高くなってしまってまるで学級長のようだ)と思っていた。

女子の成長期ブーストは、初潮がくるとたいてい終わってしまう。だから、私の背が高かったのは小6の時だけで、その後は次々に成長期を後発で迎える女の子たちにあっけなく抜き去られ、結局一番チビか、チビから2番目くらいに落ち着いた。

だが、あの憎き成長期のために、私は150cmに到達してしまったのである。これでは、「ちいさい方だがズバ抜けてちいさいとはいえない」くらいの身長である。やはり、ちいさい!となるためには150cmを切らないといけない。体重と違って、身長を縮めるのは無理だ。よく、家族が「お前は小さい時は本当にズバ抜けてチビで、大きくなれるのか心配だったが、依然チビといえどまぁよくいるチビくらいの大きさになってくれてよかったよ」という。しかし、私はあの、小さいがために妹扱いを受け、小さいがために心配されていた時代が懐かしい。

140cm台の友達にたまに言われるが、「でもあなたは150cmあるからいいよね。十分大きいよ」。嬉しくありません。あなたのほうが、私は羨ましいです。148cmも150cmも大差ないのに、この150cmという大台(小台だよなw)を突破したということはそんなに重大な意味を持ったのである。


はい、なんとも気持ち悪いネチネチした、人格障害じみた記事でした。不快になった方はごめんね。

どんな身長でもいいじゃない。って、思えるようになりたいです。

あけました

躁状態っていうのはなんか、変なエネルギーのダイナミズムに押し流されて溺れるような感じである。私は双極性障害とか言われたことは特にないが、それ用の薬を処方されていた時期もあったのでまぁ……この躁状態っていうのはあながち間違いではないんだろう。ここ数ヶ月、自分を掴んで行動できたと思える時期なんてあっただろうか?人間なんらかの制約の中で生きているので、極論いうと全員生まれてこのかたそういう経験はほとんど「ない」とも言えるか。

私はこの種の変なエネルギーに突き動かされることがけっこうある。「他人のために動いてしまいすぎる病」がこの現象の正体である。こいつはなかなか厄介で、すごく身辺が忙しくなってしまう。(あの人は私が行くと喜んでくれるから行かないと)とか、(あの人に誘われたが、私は疲れている……だが、疲れていると言う私的な理由で行かないのはあの人に悪いのではないか……)などといった間違った利他思考に走るのだ。別に私が行かなかったらその人が破滅するわけでもなし、断ったところでせいぜい相手の反応なんて「あぁ、行けないの。じゃあまた今度にしよう」ケロッ。くらいのものです。わかっているんですよ。

じゃあ心を鬼にして断ればいいじゃないですか。その通りです。私の人生の舵取りを、そんな間違った利他思考に任せていいのでしょうか?全く良くないんですよね?

私は疲れた。新年早々本当に用事が多くなってしまった。もういやだ。去年の今頃はかなり自堕落な生活をしていたが、あの時の方がはるかに充実していたと言っても過言ではない。人に好かれたい病もたいがいにしたほうがいい。お前は自分に好かれたい病を発症したほうがまだいい。

自分に好かれたい病も行きすぎるとナルシズムに陥るが、そうではなく……あぁ、なぜ私はこんなにも歪になってしまっただろうか。人に好かれたいのは、自己愛の欠落を他で埋めようとするからだ。分かっているのに、適切な方策が頭に浮かんでこない。自己愛の欠落は誰か他の人に埋めてもらえるものではなく、私が私を愛することで解決するのだ。

しかしそれがわからない。母の胎内に置いてきたのだろう。そういえば私の母の子宮にはいま、小さな腫瘤があるらしい。まぁ更年期の女性にはよくあることで、子宮筋腫だそうだ。まったく根拠のない笑止千万なことを言うが、その筋腫が具現化した私の自己愛だったとしたら面白い。


……めっちゃどうでもいい話。