やはりここに回帰するのかという話。

私はとうとう障害者手帳の申請をした。さいわい、周囲に手帳の申請について反対する者はいない恵まれた状況だった。実家の家族は、幼い頃からの私の困難を知っているので、「そりゃああんたが障害者になるのはショックだけど、その方が生きやすいのであれば、必要なのだから」と許してくれているし、オットはむしろもっと積極的に福祉を使うように主張していた。

改めて告白するが、私は自閉症スペクトラムで、二次障害として気分循環性障害がある。気分循環性障害というのは聞きなれなかったが、どうやら双極性障害(躁鬱病)のマイルド版といったところのようだ。たしかに生活していて、ときどき軽い躁状態が現れる。

等級は3級がいいところだろう。こちらとしては、いままでの人生の苦しみを考えれば3級なんてものではないのだが、ないよりはマシなのでこれ以上を望むことはやめておこう。

最近いろんな精神病をしらべて、自分はこれではないか、あれではないかと当たりをつけていた。しかしどうもしっくりくるものがなく、「自閉症スペクトラム」というところに回帰すれば、なんとなくしっくりくる。臓腑に落ちた、という感覚があるのだ。やはり、自閉症スペクトラムがすべての生き辛さの根本的な原因をなしている。

あのときああやって苦しんだのも、あのころああやって毎日死にたいと思っていたのも、いまパニックの中生きているようなのも、すべて自閉症スペクトラムのためなのだ。そう考えたらホッとする。私のせいではないと思えるからだ。

私は残念なことに「普通に見える」。これは名誉なことでもある。優秀だと評価されることが多いのは名誉だ。しかし実際はポンコツで、うまくいかないことをたくさん抱えている。だが、いくら訴えてみても、表面上イメージされている「優秀な人」という印象は拭い去ることができない。なにか窮状を訴えても、「またまたぁ〜」と、受け流され、大したことはないと思われてしまう。だから、普通に見えること、見えない障害を抱えることはとてもつらい。

では、お前は見るからに障害をもつ人という感じで生きて、「普通な人扱いされない人生」を送るとしたら、どうだと訊かれたら、これまた嫌だと思う。普通な人扱いされないことへの苦しみもやはり存在するだろうと想像できるからだ。

私はまず障害を乗り越えたい。のりこえるというのは、治すという意味ではなく、改善するという意味でもなく、とにかく二次障害を楽にする、生きやすい私への旅である。それをしないと、私は人生を切り開くことができない。切り開きたい。かつての同級生や先輩、後輩が立派な仕事に就いているのを見て、つらくなる。私は数年前、彼女たちと肩を並べて勉学に励んでいたのに、いまは、障害者であることを受け入れざるを得なくなった。そして障害者ではなく、成功をつかみつつある人々に嫉妬する醜い人間と成り果てている。

私は、つらい。私は、障害者になる。つらくなくなるために、まずは障害者として生きてみよう。

 

 

子供を産むか?の是非

婚姻届を出したら、当然だが「既婚者」になった。紙切れ一つで、まだ新婚だっていうのに、「お子さんはいますか」という質問を投げかけられるようになったのが非常に煩わしい。仕事関係の人に訊かれるのは仕方がないかとも思うが、それでもモヤモヤしてしまった。私はまだ自分が子供という気でいるので(年齢的に、社会的には大人だと自覚して振舞っているが、精神年齢が追いつかないので家では子供のようにしている)、親になるのが恐ろしい。「◯◯ちゃん」と呼ばれていた私はいなくなり、代わりに「◯◯ちゃん(くん)のママ(お母さん)」という存在になってしまう。私の主体性はどこかへ行ってしまうのではないだろうか。そのように考えている。

人にはそれぞれの事情がある。精神年齢が幼くて、年齢的には親でもおかしくないが、子供を生むレベルに達していない人(私だ)、病気があって、トラウマがあって、生むことができない状態の人。まぁ私も一種の病気があるので生むことができないのだが。そのような諸事情を想像することもなしに、「お子さんはいますか」「お子さんはまだですか」「結婚したなら次は子供だね」などとのたまう人たちが私は好きになれない。

だが私は、生まなかったら後悔するだろうなぁとは思っている。それから、生むならば早い方がいいとも思っている。早く生むのであれば、私ももうアラサーなので近いうちに動かないといけない。一年ほど前から基礎体温をつけるようになったが、それ以上のことはしていない。婦人科検診にも行きたいが、仙台に引っ越してまだ数ヶ月で、どんな病院がいいのかも分からない。時は驚くほどはやく過ぎ去っていく。どうしたもんだろう。

それに、子供って何のために生むんだろうと思う。私は、「自分が」後悔したくない、「自分は」早い方がいい、と考えているのだ。子供はまだ生んでいないし産めるかもわからないし、だから「子供がどう思うか」は考えるだけ無駄なのかもしれないが、どうにもこれでは親のエゴというやつではないか、と思いとどまってしまう。正直、私は子供のいない人生でもいいのかもしれないと思う。何が何でも生まないと後ろ指を指されたり、離婚されたりするような時代ではない。それでは私は、なぜ「生んだ方がいいな」と思っているのだろう。

多分それは、自分の人生でできる最大限のことをしようと思っているのだ。大は小を兼ねるという言葉があるように、私のできる最大限のことをすれば、ほかの全ての世界線の私より後悔は少ないと思うのだ。子供を生んでしまうと、その子を責任持って育てる必要がある。「いまから小をやろう」と言って子供をポイすることは許されない。ただ、時たま親に面倒を見てもらったり、夫に任せたり、学校に行くようになって「プチ小」を体験することはできるだろう。だが、生まなければ、いつか(多分20年後くらい)、体のリミットが来て、「いまから大をやろう」と言って妊活(私はこの言葉あまり好きではない)を始めることは不可能になる。

そういう理由で私は子どもは生もうかなぁとぼんやり考え始めた。しかしまた気が変わるかもしれない。自分のような人間が子どもを持ってもいいかなと考えるようになる日はとうてい訪れないと思っていたので、ちょっと信じられないような気持ちだ。

 

オウム真理教の死刑執行によせて

今日も遅く起きて、ぼーっとしていた。起きてから1時間後にスマホのニュースを見たら、「松本智津夫以下オウム真理教死刑囚の死刑執行」とあるではないか。一気に目が覚めた、と同時に暗い気持ちになった。

私は幼児だったので、地下鉄サリン事件当時を覚えていない。あの頃はバブル崩壊後で、阪神淡路大震災オウム事件が立て続けに起こり、少年犯罪も頻発し、日本全体に灰色の空気が立ち込めていた。なんとなく、そのようなイメージがある。

生まれてからずっと、「死刑」がある国で育ったから、悪い奴らは死刑に処せられて当然だと私は最近まで考えていたし、日本が死刑存置国であることについてなんの疑問もなかった。ヨーロッパは死刑廃止国が多いらしいが、むしろそちらのほうが異例なことだと思っていた。しかしここ数年、考えが徐々に変わりつつある。私自身がクリスチャンになったことで、いのちに対する見方が大きく変わったことが原因だろうと思う。

いのちとは、かけがえのないものだろうか。あなたや私に子供がいたら、もちろん、宝物だし、もしその子のいのちが奪われたとしたら途方にくれるだろう。しかしいのちがかけがえのないものだと考えているのは、おそらく人間だけだ。人間だけが、いのちに名前をつけ、一つ一つを単位化して、それぞれに価値を見出して愛している。

自然界では殺人が起こる。ゴリラのオスは、自分のテリトリーにいるメスの持つ子供が違うオスの子供であれば、殺してしまう。そしてそれをゴリラ社会で責められることはない。そこには淘汰圧が働いており、生存競争に不利なものを除くことは自然の摂理であり、ゴリラたちはそれを問題視しない(あるいは問題視するだけの知能はない)。

松本は悪人だ。それに追随したほかの死刑囚も、悪人だ。罪状を見れば、おぞましいことを彼らはやったし、遺族の方々の心痛は計り知れない。たしかに赦してはならない。

しかし私はクリスチャンとして、次のように感じる。別にクリスチャンでなくても、同じような感覚の人はいるだろう。死刑になるような大罪を犯す人は、生まれてきただけで、その汚れ歪んだたましいとともに生きていかなければいけないだけで、ひどい罰を受けていると。罪そのものが罰であると思う。罪を犯さなければならなかった境遇こそが、その者のたましいにとって大変な罰である。彼らは生きているだけで十分な罰を負うている。

それでも、世の中の大半の人は「悪いことをしたんだから死ぬべきだ」「死んで罪を償うべきだ」と言う。私のこの意見にも「甘い」「被害者、遺族の感情は、人権はどうなるんだ」と言う人がたくさんいるだろう。それでも私は、死刑を執行することは人間の権限の外であると考える。

たましいを審判するのは神だ。神がその者のたましいが救われるか、あるいは救われずに責め苦を受け続けるかを決定するのだから、人間がいけしゃあしゃあと死刑囚の肉体を亡き者にしたところで、意味がない。

死刑に賛成か反対かは、人間が決する問題ではない。私はこの意味で死刑には賛成できない。

 

 

 

無能な人間だという自覚

自分が発達障害だと気が付いてから8年が経った。その頃は大学に入学したばかりで、比較的レベルの高い大学だったこともあり、自分はまだ少しは有能だと思っていた。小学生時代の無能っぷり、高校で進学校に行って、友人関係で失敗して鬱になった経験などから、自分は学歴の割に無能だろうとは自覚していたが、それでもまだ望みはあった。

発達障害ではないか、と疑ってからも、確定診断されるために自分も動かなかったし(WAISを受けないといけない、とか知らなかった)、医者にかかってもそんな声をかけてもらうことはなかったので、6年くらい「発達障害かも?」で放置していた。

修士二回生に上がるとき、ようやくWAISを受けることになった。受けようと決断したのは、打算的だが、大学の構成員だったら無料で受けられる保険診療所にかかれる最後の一年だったからだ。WAISも無料で受けることができた。これはバイトもろくにできない無能学生にはありがたい制度だった。

結果、結構ひどい凹凸が浮かび上がってきた。私は「定型のフリ」がうまかったので、出てきたグラフのガタガタっぷりには、各所の主治医が驚いた(地元の富山、名古屋、そして京都)。地元の医師が上手いこと例えてくれたのだが、「言語性はF-1の車くらいの才能があるが、動作性は軽四だね。エンジン機構はF-1車なのに、操作システムが軽四で、持て余している感じだね」という。これには笑ってしまった。

それでも修士論文を書き上げるまでは、持ち前の比較的高い言語性IQを駆使して、どうにかまだ「我有能也」という勘違いを続けられた。口頭試問でも「筆力の高さ」に言及されて有頂天だった。しかし修了と同時にTちゃんと結婚するので仙台に居を移してから、私は「タダの無能人間」であるという現実を突きつけられた。

大学院時代までは、「K大生」だということで一目置いてもらえた。精神障害のせいで修了が遅れ、出る頃には20代も半ばになっていたが、それでもやはり京都という学都である。大学院生という身分に対して一定の敬意があったし、私は若く見えたので最後まで学部生と勘違いされ続けた(24の時に一回生?と訊かれ、事実を告げると驚かれるなどした)。だから実家の祖母の台詞「勉強だけできてもねぇ(笑)」とか言われなくて済んだ。しかし仙台に来ると、私はただの「無能主婦」に成り下がった。学歴を知られても、「不思議ちゃん」キャラにされるだけだ。そして必ず職業を聞かれて、自分が専業であることを打ち明けると、「もったいない」と言われる。高学歴=有能と考える周囲の短絡的思い込みにさらされ続けてうんざりしている。私は無能なんだと声を大にして言いたい。学歴をクローズにしていても、話し方ですぐに「頭良さそう。学歴は?」などと興味本位で聞いて来るやつらばっかり。京都から来たという情報を開示していれば必ず「京大でしょ」と誘導尋問される。「でも大学は名古屋なんです(思ったより大したことないですアピールのつもりだったが)」と言っても、とある事件のせいで仙台で「名古屋大学」は有名になっており、「われらがトンペーと同じくらいの有能大学」と分かられてしまうのだ。

どうやら定型の、しかし学歴は高くなく、「人並みに苦労して来た」と自負している人には私のようなのは煙たがられる傾向にあるらしかった。すごい辛酸を舐めて生きてきたのに、苦労をしていないように見えるらしい。しかも比較的若い世代では珍しいだろう「社会人経験なしで専業主婦。夫は優しい」「大学院まで行かせてもらっている」「親にまだ頼れる」とか、客観的に見たらただの恵まれたお嬢ちゃんである。有能を期待することで、彼らは私をある種ルサンチマンのはけ口にしているように感じてしまう。

だから私は、早く大学院に戻りたい。

障害者手帳の話です。

またしても久々の投稿と言わなければなりませんね。
私は現在、「アルバイトをしている主婦」という立場で生活しています。とはいえアルバイト収入なんて月に20,000円程度のもので、しかも仕事場が遠いので、くたびれて帰ってくるという割に合わないものです。しかし私を社会的に、まっとうな人間だと思ってくれるのはこのバイト先の人たちだけです(すでに忘れ物が多いのでADHD特性持ちはバレているかもしれません)。だから私はこの仕事を手放したくないと思っています。塾のチューターのようなものなので、中3の高校受験を見届けたく、せめて一年は続けようと思っています。それが、私の社会人の端くれとしての責務だと思います(あまりに堅苦しい。こんな考えだから辛いのだろう)。
私は「普通のふり」をするのが大変うまいです。なので、外ではふつうのふりを精一杯やり、普通の人には想像を絶するであろう脆弱性からくるストレスでくたびれ、家で荒んでいるという日常です。オットはその世話をしなければならないので、本業が疎かになっています。私自身家事は完璧には程遠く、料理をしたらもうそれ以外働けません。洗濯程度でHPの半分は削られます。私は妻として不適格であり、オットの人生の邪魔でしかない。
外で精一杯「ふつう」をやっている私が障害者手帳(精神)の取得を考えているなんて言ったら、ほとんどの人は「君には取れないだろう、君はふつうなんだから」と言ってくる。無駄に頭でっかちな学歴と、無駄に高い言語能力がこれを後押しする。
しかし私はもう「健常者」であることに疲れた。私は小学生時代から、「わたしには何らかの障害がある」と確信していた。周りの子供たちはこんなに生きづらいのだろうか。学校で喋れなくなったり、「ハイ」というだけで胸が張り裂けるくらいドキドキするだろうか。数々の大きすぎる不安に押しつぶされるのだろうか。それで、生活全体が苦痛になるようなことが、果たして、この周りで私をからかっていじめて遊んでいる奴らに、あり得るのだろうか?そう思っていた。私は自分を「障害者だ」と思うことになんの躊躇いもなかったし、今は声を大にして言おうとすら思う。
私の先輩で、同じ大学院の研究室を出た人がいる。その人は精神障害を持っている。彼女はある日、勝ち誇った顔で私に障害者手帳を見せた。彼女は私より随分(ヒトとして)優秀で、働いているが、彼女も苦しかったと思う。学歴、経歴を見て、「優秀なんだろう」と思われるが、心には大きな病気を抱えながら、周りの期待に応えることは、ともすると死の覚悟をしなければならないほど辛いのだ。彼女の勝ち誇った顔の理由が私にはよくわかった。
私はこの夏、思い切って障害者手帳の申請を行うつもりだ。

久々の投稿。

今年の4月(正確には少しフライングしていたが……)私はみちのくに引っ越した。引っ越してから2ヶ月が経っているが、私はまだ杜の都に慣れることができず、引っ越し憂鬱の状態が続いている。思えば名古屋でも京都でも、慣れるのに一年はかかったので、仙台(ここにきて伏せるのをやめる)もそんなもんだろう。ただし、学生を終えたいま、仙台での暮らしはより困りごとが多い。学生を終えると、友人を作ることが困難になる。大人というのは悲しいもので、新しく気のおけない友人を作る機会がガクッと減るのだ。モラトリアムを割とながく延長してきた私は、齢26にして初めてそのことがわかった(あぁ、年齢バレましたね)。

今思うと名古屋、京都と、仲のいい友人が定着したころにようやく慣れが生じたので、仙台でなかなか慣れないのは当然である。いま私は友達がゼロと言っても過言ではない状態にある。「おひとりさま」は昔よくやっていたが、Tちゃん(婚約者)と出会ってから一人で行動する機会がめっきり減って、人間としての自立レベルが大幅に下がってしまった。

私は大人になるってのは、一人でも平気だということであると思っている。つまり私はいま幼児退行した状態にあり、また「一人でも平気」な私を取り戻す必要があるということだ。

なぜTちゃん依存が強まるかというと、この地域で私が頼れるのが彼だけだからだ……仙台に来てから人間としてのレベルが大きく低下しているように感じており、ライフハックの必要性を強く感じる。

ライフハックとは何か?うぃきぺぢあを見ると、「自身の生活や仕事のスタイルにおいて「気の利いた手段で、もっと快適に、もっと楽して、もっと効率良く」という方法を得ようとしていくこと」だそうである。私はいまとにかく生きることに必死すぎて、なにも体系だった生活を送れず、無駄な行動をしては疲労を蓄積させている。もう四半世紀も生きたのだから、要領よくいきたいものだ。

ライフハックのためにカーブスというジムに入会したり(健康のためよ)、家事で疲弊するポンコツなので「おいしっくす」なるものを頼もうか検討したりしている。しかしこれら、お金がけっこうかかる。昔やった「進研ゼミ」と同じで、「豚に真珠」にならないか。豚に真珠ではなくて貴婦人に真珠であれば、カーブスだとかオイシックスだとかも浮かばれるのだが……。ジムは頑張って行っている。お陰で1ヶ月で少し力こぶがわかるようになった。

ライフハックついでに、最近わかったことは、私は向学心が旺盛なので、勉強を毎日頑張れば精神が安定するということだ。学生時代が終わればそんなことはないだろうと思っていたが、相変わらずの傾向のようだ。私はいま心理学の勉強を進めている。

人間は生きる意味を模索するようになってからダメになったのではないか。

人間(この場合一定以上の先進諸国の国民、とりわけ日本人を想定している)の精神にとって、「近代」のもたらした功罪。私はやたらこれを考えている。良きところはたくさんあったと思う。物質的に豊かになったという点において、これ以上恩恵を受けた国もほとんどないと思うからだ。もし「富国強兵」に出なければ、日本の行く末は、一体どうなっていたのだろう。
しかしその裏に生じた悪しき面について、必ず目を背けてはいけないと思っている。「自己実現の欲求」が最高次元の欲求だと定義したマズローの議論はいまだに現代社会で習うほど幅を利かせているのであるが、この「自己実現」というやつはかなり曲者である。
近代から現代に至る過程で、人々は「みんな平等だ。頑張れば、下克上できる。頑張れば富を築いて、幸せに暮らせるんだ。やりたい仕事ができる。生き甲斐が生まれる」と思い込まされた。そのための装置として、上野千鶴子氏や山田昌弘氏などの社会学の偉い先生たちが指摘するように「学校」があった。しかし実態として、どうだろうか?必ず頑張ればなんとかなるのか?といえば、そうではない。私たちの親世代には、そのように信じたが上手くいかなかったので仕方がなくそこそこにお勤めをし、そこそこのところを甘受している人が多いのではないか(ちなみにうちの親もそうだ)。
その子世代は、いま就労の義務の前にもがいているのが多いと感じる。ニートや引きこもりがそれだ。私は斎藤環氏という「引きこもり」に詳しい精神科医の本を読んだが、私のメンタリティは引きこもりのそれだった。結婚というカードを切ることができたから、大学院修了後私は「専業主婦」という隠れ引きこもりのカードを得ることができたが、しかし引きこもりメンタルであることに変わりはない。
近代がもたらしたのは、経済がまだ成長していたバブル期までは間違いなく恩恵であり、「頑張ればそれだけのバックの見込める社会」である。しかしバブル崩壊後、近代のもたらした恩恵であるはずだったものは紛うことなき「絶望的閉塞感」に成り代わっている。
頑張っても必ず報われるわけではない。それどころか上野千鶴子氏が「サヨナラ、学校化社会」で述べるように、自己肯定感を残酷にも子供達から剥いで行ったせいで、頑張る気力もない、あるいは頑張り方もわからないような子供達。若者たち。
私はこういう社会の負の側面をもろに受ける形で大人になり、いま苦境にある。結婚前の人にはとても見えないよ、と精神科の先生に心配されている。いままであなたは頑張ったのだから休んでいなさい、と言われる。

何も、生み出していないのに?


私はこの先の人生、何も生み出せないのか?


私は、幼い頃から死の恐怖から目を背けることができなかった。人間は必ず死ぬということ。自然とやってくる死が恐ろしすぎて自殺したいと考えるほどに、死を逃れるために死にたいと考えるほどに。私の希死念慮は9割方死への恐怖から来ている。なんとパラドキシカルなことだろうか。
そしてこの、「死から目を背けられない」というのもまた近代がもたらした病だと思われてならない。
自己実現しよう、というスローガンはすなわち、われわれに「生き甲斐を持て」というメッセージを与えるものと読むことができる。生き甲斐がなかなか見出せない社会で、死が間近なものとして意識されてしまうという構造があるのではないか。生き甲斐がない、ということは、自然人に哲学的思索の時間をもたらす。なぜ生きるんだろうと考えねばならない。しかしそのことは同時に、いずれ何事をもなせぬうちに死ぬに違いないということを気づかせてしまう。

神様のことを私は思い出さないといけない。神様のもとに魂を譲り渡せるその日まで、私は子羊であろう。