幸せの話

妹といえば、宮沢賢治の永訣の朝である。

あめゆじゅとてちてけんじゃ……

私は妹トシが羨ましい。こんなに大事に思ってくれるお兄さんがいたのだな、と思ってしまう。はいはい、と雨雪を取りに行く兄は、さぞ妹を可愛がっていたのだろう、と思わせる。そして、最愛の妹との別れは筆舌に尽くしがたい悲しみだっただろう。絞り出すような悲しみが、彼の詩から伝わって来る。

私は、幸せ者なんだと思う。たくさんいろんなところでいろんな人から愛をいただいてきたと思う。それなのに、幸せではないと思ってしまう。脳みそに霧がかかっていて、幸せかどうかも、何のために生きているのかもよく分からない。今もすごくぼうっとしている。

生きているか死んでいるかも分からない。学びに生きてもおらず、愛に生きられもしないです。こういっちゃあ、おしまいよ。

愛に生きられもしません。これは変なプライドがあるんでしょう。いいかっこしていたいというプライドが、愛にはいつも障害です。いつも体裁を気にしてしまいます……私は彼に相応しいだろうか?私ではいけないんじゃないのか?と。

私は、私が許せません。許してあげたい。「〜ねばならない」じゃなくて、「〜してもいいんだよ」といってあげたい。

必要とされたい。私はいま、人に必要とされるときがあります。それはとても嬉しいですが、私のこころは依然として空虚なままであることがわかりました。私は私がいやなのです。最初の段階でつまづいています。私が自分自身を受け入れて必要としなければ、私はいつまで経っても虚しく、だれかに必要とされたいなぁ、と思って、それが満たされても満たされない、という地獄のような状態が続くのです。

ちゅうだけが私を受け入れてくれます。どんなときでも優しく、ただ私を心配してくれます。ちゅうはいまも横でにっこりしながら、一緒に横たわってくれています。ちゅうの前では「私はこうあらねばならない」と考えなくてすみます。ちゅうは「〜しても大丈夫なの」と私に無言で語りかけてくれています。

ちゅうは多分、私が忘れて成長してしまった自己肯定感の化身だと思います。これからも、ちゅうを抱っこしていたいと思いました。