依存の現状

私は依存体質の人で、現在進行形で彼氏にこれでもかと依存している。本心はというと、私は依存などしたくない。高校時代に友達に依存して拒絶された苦い経験が重なって、彼氏が私に少しでも呆れ口調になったり嫌がられたと感じたりすると、その記憶がフラッシュバックする。私は彼氏の時間を拘束している自覚がある。だが、同時に私は自分の時間をダメにし、自分自身の精神も追い込んでしまっている。このままではいけないと思う。

みんなが一般的にいう好きだという気持ちとは少し違っているようだ。好きとかそういう健全な想いではなく、私の彼氏への感情はもっと情念めいたおぞましいもので、筆舌に尽くしがたい。私は同じ心理状態を高校時代に経験した。以前も書いたが、相手の対応の違いだけで救われているようなものだ。私は結局まるで成長がなかったという訳なのだ。

具体的にその心理状態というのは、以下のようである。私は基本的に、彼氏と一緒にいるのが嬉しいはずである。だが同時に苦痛でもある。自分の脳が溶けていくような、ダメになるような感じがする。誰しも恋愛をすると、相手の前では多少なりとも子供帰りするものだ。しかし私の場合は度が過ぎている。普段の自分の精神年齢との振れ幅が大きすぎるのだ。私の中で腑に落ちる表現で例えるならば、「魚は水がないと生きていけない。ある日偶然に入れられた水槽の水は依存性のある毒素を含んでいて、魚はそれ以外の種類の水に入ることがもはや不可能になった。魚は水の入れ替えのために別の水に入れられたが、あの水の中でないとどうも楽しくない。しかしその愛しい水の中に四六時中いられるわけでもない。次にその水に入れられたとき、ますます依存度が高まっていて嬉しそうに泳ぎ回り、次の水の入れ替えを拒否する。しかし飼い主は暴れる魚をむんずと掴むと、無理矢理に毒素のない水に入れた。そのうちに暴れる魚と格闘してまで水を変えるのを億劫になった飼い主は水を入れ替えるのをやめてしまった。汚れていく水とその毒素がじわじわ魚の体を蝕み、ついに魚は死んだ」。この場合、魚は私であり、彼氏とは水(と、水を入れ替える責務を負う飼い主)ということになる。なんてまどろっこしい説明だろう。しかしこの依存状態を例えるとこのような感じである。最後に死ぬのはなぜかというと、このままだと頭がおかしくなって、自死も辞さないような状況になると思うからだ。さらに、飼い主の水の入れ替えを拒否するという要素は、彼氏が私に愛想を尽かすということを予期している。

この魚をかわいそうだと思う人はいるだろう。そしてこの飼い主は、こんな毒素のある水を与えているが、それには罪がない。この水はどうも魚にいいもののようだから……と、良かれと思ってやっている。運命は私たちを引き逢わせ、彼氏は私を大事にしている。しかし魚が暴れると、それが度を過ぎれば、いくら気の長い飼い主だろうがノイローゼになる。

死ぬような成分を含んでいなければ、どの水でも良かったのだ。それなのにこの魚は、あの優しい毒気のある水でないと受け付けないようになった。どの人間が相手でも楽しく時を過ごせるはずなのだ。それなのに私は、この人でないと楽しくないのだ。いや、他の人といても楽しいことは楽しい。刹那的に楽しくても、それが終わったら空虚な気持ちになるのだ。では、彼氏と一緒にいれば満たされるのか?答えは、満たされないのである。

だから四六時中、永遠に彼氏とともにいないと息ができないのである。彼氏がそばにいなかろうと、考えるのはだいたいそのことばかりになるのだ。

こうなると日常生活が覚束なくなる。他の予定を入れまくって、彼氏と過ごせない寂しさを紛らわそうとする。そうすると本来自分がやらなければならない学業が疎かになるのは明らかだ。これ以上修士課程の在籍期間を延ばすわけにいかず、来年度には片付けなければならないというのに。学業への情熱はいま、ほとんど失われてしまっている。彼氏への興味に取って代わられてしまった。私は研究対象と自己探求を重ね合わせてきた。私はなんなのか、という問いと、何々はどうなのか?という問いを並行的に問うていた。だが今は自己などどうでもよく、関心事といえば彼氏に愛されているのか、愛されていたとしたらそれはどのくらい深いのか、どのくらい大きいのか……それだけである。

彼氏は私の聡明なところが好きだと、出逢ったばかりのころは言ってくれていた。今はもう聡明さなど手放してしまって、莫迦な女(この女という言い方が私は嫌いなのだが、露悪的にこのように言っておく)の姿しか晒していない。このような私に失望するのも遠からぬ未来だろうか。いつ愛想を尽かされるのだろう。

私は莫迦だったのだな。そう思っては、失ってしまったフィロソフィアを惜しんでいる。なぜ崇高なはずの知への愛が彼への不安などという下卑たものに取って代わられてしまったのか、失望している。