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メンヘラ女の戯言

たわごと、ざれごと、どっちも同じ字を書くんですね。これから書いて、眠れない夜に悶々と考えたことを記録するのです。読むのは時間の無駄かも知れませんよ。

私は眠れない時に延々と独り言をすることがある。今もそれをやっていた。話しているうちに、書き留めておくだけの価値があるのかも知れないと思った。

私は幸せではない。幸せを、幸せであると素直に認識できる人が幸せであり、幸せなのに幸せを受容できずにいる人は全き不幸としか言いようがないと私は思うからだ。私は彼氏がおり、大変愛していると宣言できる。しかしその彼氏を愛している私自身のことを、私は愛しているだろうか?答えは、全く愛していない、となる。むしろ憎悪しているとも言える。私は私にまつわる全てを愛することができない。私が私と不可分であると認めたものに関しては、憎悪の対象となる。例外は、ちゅうというピカチュウのぬいぐるみと、彼氏くらいである(これらは大事ではあるが、不可分と認めてない可能性もある。そもそも不可分である、という見方自体が病的な可能性もある)。反面家族は、不可分と認識しているがために、卑下の対象であり、どうしても愛することはできないでいる。これは私があまりまともではない家族に囲まれていたせいかもしれない。私の家族成員には愛すべき人々が揃っているのだが、それぞれに難点があり……まぁご愛嬌の範囲だと思うが、病的に敏感な私には深い禍根を残す結果となった。残念ながら。

それで、私は眠れない夜に、私はなんと不幸なのか?ということに思いを巡らせた。幸福とか、不幸だとかいうのは本来は神様がお決めになることなので、人間風情が決して良い問題ではない。それは傲慢というのだ。

しかし、私はどうしても、この彼氏にいくら大事にされたとしても自分が幸せであると思えないことの理由を突き止めて、手放しでこの幸せを噛み締め喜ぶことができるようになりたいと思った。だから、まずはこの、大事にしてくれる人間のできた彼氏がいるのに幸せを感じられない不幸な状態を把握する必要があった。

私は少々自己肥大がすぎるようだ。何を考える時も、「自分」基準でものを考える傾向がある。自分だったらどう感じるのだろうか?自分もそういい経験があるだろうか?など、とにかく自分中心の考えが私は多い。

ただ無心に、彼氏のことだけを考えているうちはいい。幸せだ、彼氏が好きだと考えてニヤニヤするまである。しかし、「自分」という存在を隣に置いて比べてみるとたちまち2人は釣り合わないとか、私は劣っているので、一緒になっていいような人間ではない……などという自己否定に走り出し、しまいには「彼氏と出会わなければこんな気持ちにはならなかった」「彼氏の存在を忘れられたらどんなに楽だろう」などと考えてしまう。

つまり、彼氏との関係において「自分」をあまり意識しすぎないほうがいい。さらにいうと生活のあらゆる局面で、できるだけ「自分」というファクターを排除したほうがいいのではないか?ということに気がついたのである。わかりやすくいうと、「自意識過剰」なのである。これを行き過ぎた自己肥大、などと表現しているにすぎない。

みんな私ほど、人生において「私」について考えないだろう。子供なのか哲学者なのかよく分からないが、褒められた特質ではない。

太宰治氏。高野悦子氏。私に影響を与えている文筆家だが、ともに肥大した自己を持て余して、自殺した。このままいくとますます私はどん詰まりに追い詰められ、「ジサツ」のコースへ入ってしまう。それは回避すべきことだ。

ということを、眠れない夜に考えるからますます安眠が遠退く。