うたと私

はいつ歌が好きであると気がついただろうか。最初に歌ったのは、保育園に通っていたころ、ひいばあちゃんと遊んでいるときに不意に口ずさんだ即興のしょうもない歌だった。そのとき、私は自分の音感とか、声が綺麗かどうかとか、気にせずに歌っていた。ただ言葉ならぬ言葉を繰り返しながら、一定のメロディにその言葉を乗せていた。

保育園年長から小学校のころに習わされた「鍵盤ハーモニカ」が私は大嫌いだった。ピアノを習っていなかったので、うまく吹けなかったのである。ピアノをしている子はスラスラできていた。これが私の大きな躓きの石だった。年長のとき、練習をサボって先生に怒られたこともある。鍵盤ハーモニカ棚の後ろに隠れていた。クラス随一のチビで欠席がちの私がいないことを、練習が終わるまで先生は気づかなかった。そして終わったころ気がついて、鬼のような形相で私を睨んだ。当時祖母と同じくらいの歳だったその先生はまだ70代で先日亡くなったと聞いた。先生、私は音楽が好きになりました。

……だが歌は別だった。歌を得意だと気がついたのは小学校何年生だったか忘れた。忘れたが、記憶に鮮明に残るのは小五のときの歌のテスト。確かコンバースの「星の世界」という歌だった。当時の担任は厳しい人で、厳しすぎのせいで問題視されて小学校を早く転任になってしまうような人だった。彼女は私をよく傷付けたが、このときは違った。私は声が小さい。声が小さいけれど、「音程がすごくいい」と驚き、大変褒めた。それほど音程が抜きん出てよかったのだ。私はピアノもヴァイオリンもしていなかったので音感があるはずもなかったが、父親が音楽好きの人だから、クラシックのCDをよく聞かされていたからなのだろうか。とにかく音程はよかった。

それから、中学生の時は、クラスのみんなの前で歌を披露しなければならない、それが歌のテストである、という時があった。その時愛唱曲集の中から好きな歌を選ばされた。私は親の車でよく聴いた、スピッツの「空も飛べるはず」を選曲した。この歌は母が好きだと言っていた。「幼い微熱」ってなんだろう。「神様の影を恐れて」ってなんだろう。私は風邪をひいた主人公が、自分は死ぬんじゃないかと思っている情景を思い浮かべた。そして、実際私は風邪をひいて微熱がある時、自分は死ぬのではないかと恐れおののく気持ちがした。だからその歌は私の中で、人生で初めて死を思った切っ掛けだった。余談だがなぜかスピッツ「渚」も死を思ってしまう……(草野マサムネ氏は、曲を作る時、性と死を思っているそうだからこの感覚は正しい)。

話が逸れたが、私は「空も飛べるはず」を歌った。歌い終わった時、教室がわずかにざわついていたと思う。引っ込み思案でおどおどした私が意外にも上手く歌うのにみんな驚いたのである。

私はこのように、さえない義務教育時代の自尊感情を歌に支えられながら送った。歌を歌うと、私は私でいられるような気がした。私は人に認められたい一心で歌を歌った。うたは、言外の筆舌に尽くしがたい思いを無形のかたちにして人に届ける。人が自分と違う受け取り方をしたとしても、それはそれとして面白い。そうして聴いてくれた人もなにかを感じて心象風景が豊かになってゆく。

私は場面緘黙症で、学校ではうまく人に言葉を伝えることができなかった。あの日々はつらかった。周りが怖くて、声が出ず、少しでも声を出さざるを得ない時は吃音の症状が出て、いじめられる恐怖、自己嫌悪と戦わなければならなかった。20年近く前だからまだ場面緘黙症なんて知名度が低く、誤解を受けてばかりだった。だからこそ、うたは、私が私を表現できる限られた機会だったのだ。

だから私は高校の時、飛びつくように合唱部に入った。大学のサークルも混声合唱を選んだ。そして今も市井の合唱団に所属している。しかし気づいたことがある。合唱するにも、お金がいるのだ。要り用で、虚弱な私はバイトができない身の上だから、どうしても賄うことができないでいて、ついに手をつけないでおこうと思っていたつらかった短期バイトのバイト代に手をつけるところだ。親にも彼氏にも反対されて、また自分自身お金を工面できないことから、次のコンサートが終わったら一旦退団を申し出ないといけない。私は悲しい。どこかで私は歌を歌いたい。悲しみのない自由なそらへ翼はためかせて行きたい人がいるらしいが、私は悲しみのない自由の身になって、いつまでも歌を歌えたらいいのに。長年の鬱病があり、不自由で、歌を歌う場所はどこにもなくなってしまう。