大学院生って……

大学院生という身分で3年間いさせてもらった。院試の準備のために研究生をしていた1年も含めると、あしかけ4年のロスタイムであった。大学時代まで私の周りには同じように学生を22.3歳までやる者がほとんどで、地元の友人にも、公立ではあったが思いのほか一定レベル以上の大学進学者が多く、帰省しても話が合った。とくに、中学時代からずっと仲良くしている3人組で集まると、そのうち一人は高卒で就職しているが、それでも「私たちはあのとき(箸が転がっても笑った中3のころ)から何も変わらない」と思え安心できたのだった。

しかし2人目が大卒で就職したら、私は社会に出られずに大学院にモラトリアム的に逃げ込んで、研究に邁進することもできない自分に嫌気がさすようになった。最初のうちはまだやる気があったし、「私は私でずっと人生の労苦を味わっているのだから、彼女たちが働いているのに私は学生で楽しているなどと思わなくてもいい。院生なりの苦労があるし、私はそうでなくても精神を患って苦労しているのだから」と言い聞かせることができていた。

だが、就職3年目で異動があった県庁に就職した真面目な友人が職場での不適応で悩まされる様子を目の当たりにして、私は不条理を感じていた。私と同じように彼女は苦悩しているが、その内実は全く違うのだ。私は学生である限り、どんなに苦しもうとも社会的責任からは遠ざかることができる。しかし彼女は違う。どんなに苦しくても、「辞めます」と言わない限り労苦は続いて行くのだ。しかも、私のように自分の人生のための悩みだけでなく、職場でどうやっていくか?そういう、人生と直接関係のない悩みで心身が蝕まれるのだ。

もちろん、職場のことに苦悩した結果人生の果実がもたらされることはあるだろう。ノウハウを身につけて、みんなに慕われて、そうやって年齢を重ねた頃に「これでよかったんだわ」と思える日がきたとしたら、それは彼女の勝利だ。しかし悩んでいる渦中では、自分の職場について悩みがいかに有限の人生を浪費しているのかに思い当たるのではないか。

それに比べて、学生である私はどんなに苦悩しようとも、「私の人生のための苦しみである」という自覚を持ちながら喘ぐことになる。どんなにかそれが苦痛を伴うものであれ、人生における光を探しているという確信がある。

これは大きな差異ではないか。このように思ったとき、私は自分がもういい歳なのに社会的責任を放棄して自分の人生を乗りこなすことだけに集中して、大変甘えていると自己嫌悪に陥った。すでに働いている昔からの友人たちに、申し訳ないという感情が沸き起こった。彼女らはそれでも優しいので、「院生さんには院生さんのつらさがあるでしょ?」と労ってくれる。そんな友人がいて私は幸せ者だ。

私はまだ口頭試問を終えていないが、試問で先生に暴言を吐くとか、ふざけた態度をとるとか、そういう突飛なことをしない限りはまず修了できるだろう。修士論文は合格ラインには達したと思うし、こないだ話した先生の口ぶりではまぁ、私を修了させる気でいるようだった。そして修了したら私は、いままでの「何かに追われる生活、これこれのテスト、このこれの課題をクリアしなければならない」という、6歳の時から直面し続けた相次ぐ落伍恐怖から解放される。それは私にとって不安でもある。これまで、落ちこぼれを恐怖する気持ちで私のほとんどは成り立っていた。だから、それがなくなったとき、私は空っぽの人間になるだろう。

私はほぼ専業主婦になると思う。Tちゃんは私をよもやまともに働ける人員としてみなしていないだろう。それなのに私と結婚することを欲した。それでも私は有益な人間になりたいと思う。落伍恐怖がなくなったとき、私はどうやって自分を立て直すのだろう?

現在のもっぱらの不安は眼前に迫った口頭試問であるが、それが終わったらさらに難しい悩みが、私を待ち受けているということだ。