人間は生きる意味を模索するようになってからダメになったのではないか。

人間(この場合一定以上の先進諸国の国民、とりわけ日本人を想定している)の精神にとって、「近代」のもたらした功罪。私はやたらこれを考えている。良きところはたくさんあったと思う。物質的に豊かになったという点において、これ以上恩恵を受けた国もほとんどないと思うからだ。もし「富国強兵」に出なければ、日本の行く末は、一体どうなっていたのだろう。
しかしその裏に生じた悪しき面について、必ず目を背けてはいけないと思っている。「自己実現の欲求」が最高次元の欲求だと定義したマズローの議論はいまだに現代社会で習うほど幅を利かせているのであるが、この「自己実現」というやつはかなり曲者である。
近代から現代に至る過程で、人々は「みんな平等だ。頑張れば、下克上できる。頑張れば富を築いて、幸せに暮らせるんだ。やりたい仕事ができる。生き甲斐が生まれる」と思い込まされた。そのための装置として、上野千鶴子氏や山田昌弘氏などの社会学の偉い先生たちが指摘するように「学校」があった。しかし実態として、どうだろうか?必ず頑張ればなんとかなるのか?といえば、そうではない。私たちの親世代には、そのように信じたが上手くいかなかったので仕方がなくそこそこにお勤めをし、そこそこのところを甘受している人が多いのではないか(ちなみにうちの親もそうだ)。
その子世代は、いま就労の義務の前にもがいているのが多いと感じる。ニートや引きこもりがそれだ。私は斎藤環氏という「引きこもり」に詳しい精神科医の本を読んだが、私のメンタリティは引きこもりのそれだった。結婚というカードを切ることができたから、大学院修了後私は「専業主婦」という隠れ引きこもりのカードを得ることができたが、しかし引きこもりメンタルであることに変わりはない。
近代がもたらしたのは、経済がまだ成長していたバブル期までは間違いなく恩恵であり、「頑張ればそれだけのバックの見込める社会」である。しかしバブル崩壊後、近代のもたらした恩恵であるはずだったものは紛うことなき「絶望的閉塞感」に成り代わっている。
頑張っても必ず報われるわけではない。それどころか上野千鶴子氏が「サヨナラ、学校化社会」で述べるように、自己肯定感を残酷にも子供達から剥いで行ったせいで、頑張る気力もない、あるいは頑張り方もわからないような子供達。若者たち。
私はこういう社会の負の側面をもろに受ける形で大人になり、いま苦境にある。結婚前の人にはとても見えないよ、と精神科の先生に心配されている。いままであなたは頑張ったのだから休んでいなさい、と言われる。

何も、生み出していないのに?


私はこの先の人生、何も生み出せないのか?


私は、幼い頃から死の恐怖から目を背けることができなかった。人間は必ず死ぬということ。自然とやってくる死が恐ろしすぎて自殺したいと考えるほどに、死を逃れるために死にたいと考えるほどに。私の希死念慮は9割方死への恐怖から来ている。なんとパラドキシカルなことだろうか。
そしてこの、「死から目を背けられない」というのもまた近代がもたらした病だと思われてならない。
自己実現しよう、というスローガンはすなわち、われわれに「生き甲斐を持て」というメッセージを与えるものと読むことができる。生き甲斐がなかなか見出せない社会で、死が間近なものとして意識されてしまうという構造があるのではないか。生き甲斐がない、ということは、自然人に哲学的思索の時間をもたらす。なぜ生きるんだろうと考えねばならない。しかしそのことは同時に、いずれ何事をもなせぬうちに死ぬに違いないということを気づかせてしまう。

神様のことを私は思い出さないといけない。神様のもとに魂を譲り渡せるその日まで、私は子羊であろう。