オウム真理教の死刑執行によせて

今日も遅く起きて、ぼーっとしていた。起きてから1時間後にスマホのニュースを見たら、「松本智津夫以下オウム真理教死刑囚の死刑執行」とあるではないか。一気に目が覚めた、と同時に暗い気持ちになった。

私は幼児だったので、地下鉄サリン事件当時を覚えていない。あの頃はバブル崩壊後で、阪神淡路大震災オウム事件が立て続けに起こり、少年犯罪も頻発し、日本全体に灰色の空気が立ち込めていた。なんとなく、そのようなイメージがある。

生まれてからずっと、「死刑」がある国で育ったから、悪い奴らは死刑に処せられて当然だと私は最近まで考えていたし、日本が死刑存置国であることについてなんの疑問もなかった。ヨーロッパは死刑廃止国が多いらしいが、むしろそちらのほうが異例なことだと思っていた。しかしここ数年、考えが徐々に変わりつつある。私自身がクリスチャンになったことで、いのちに対する見方が大きく変わったことが原因だろうと思う。

いのちとは、かけがえのないものだろうか。あなたや私に子供がいたら、もちろん、宝物だし、もしその子のいのちが奪われたとしたら途方にくれるだろう。しかしいのちがかけがえのないものだと考えているのは、おそらく人間だけだ。人間だけが、いのちに名前をつけ、一つ一つを単位化して、それぞれに価値を見出して愛している。

自然界では殺人が起こる。ゴリラのオスは、自分のテリトリーにいるメスの持つ子供が違うオスの子供であれば、殺してしまう。そしてそれをゴリラ社会で責められることはない。そこには淘汰圧が働いており、生存競争に不利なものを除くことは自然の摂理であり、ゴリラたちはそれを問題視しない(あるいは問題視するだけの知能はない)。

松本は悪人だ。それに追随したほかの死刑囚も、悪人だ。罪状を見れば、おぞましいことを彼らはやったし、遺族の方々の心痛は計り知れない。たしかに赦してはならない。

しかし私はクリスチャンとして、次のように感じる。別にクリスチャンでなくても、同じような感覚の人はいるだろう。死刑になるような大罪を犯す人は、生まれてきただけで、その汚れ歪んだたましいとともに生きていかなければいけないだけで、ひどい罰を受けていると。罪そのものが罰であると思う。罪を犯さなければならなかった境遇こそが、その者のたましいにとって大変な罰である。彼らは生きているだけで十分な罰を負うている。

それでも、世の中の大半の人は「悪いことをしたんだから死ぬべきだ」「死んで罪を償うべきだ」と言う。私のこの意見にも「甘い」「被害者、遺族の感情は、人権はどうなるんだ」と言う人がたくさんいるだろう。それでも私は、死刑を執行することは人間の権限の外であると考える。

たましいを審判するのは神だ。神がその者のたましいが救われるか、あるいは救われずに責め苦を受け続けるかを決定するのだから、人間がいけしゃあしゃあと死刑囚の肉体を亡き者にしたところで、意味がない。

死刑に賛成か反対かは、人間が決する問題ではない。私はこの意味で死刑には賛成できない。