正月親戚イベントに爆発する劣等感

叔母一家が来るのは嫌いではない、むしろ小さい時から好きな方なのだが、自分の生い立ちを年下のいとこと比べて劣等感に苛まれ、自己嫌悪でろくに眠れない。記念碑として書いておくことにする。

いとこは4月から高校三年生になり、大学受験に飛び込んでいくことになる。幼い頃から教育熱心な叔母夫婦に英才教育(わたしから見れば)をされたので、順当に進学校に通っている。叔母夫婦にとってわりと高齢のときの子供であるため大学は地元で進学することを期待されているのであまり選択肢はないものの、早いうちから彼の志望校は「国立医学部」と決まっている。叔母夫婦は医者ではないのだが病院関係で勤務してきた。叔母は出世しているのでさまざまな業務に携わってきており、その話を見聞きしているのだから医療に関心を持つのは当然のことだし、一人っ子なので両親との関係も近くなるため、医師になりたくなるのも分かる。私はその進路選択を基本的に応援しているし、男子なのでガンガン偉くなればいいと思う(女子が偉くなるなという意味ではない)。

一方の私は、発達障害があり、療育を望めなかった最後くらいの世代。高校生、ちょうどいとこの年頃から二次障害を発症し、ずっと暗中模索が続いていた。研究者のオットや医学部を目指すいとこのように高校生の段階で明確に自分の将来やりたいことが見える段階になかった。

私の目標は、ただひたすら「偉くなってみんなに褒められて自分を好きになること」だった。ハッタツあるあるだが私は歩くのが2歳近くとかなり遅く、障害を疑われていた。それゆえ私の成長には家族の誰も期待していなかった。いつも私の成績がよかったり、書道で賞をとったりすると「意外にできる」という反応をされる。だから、あまり過度の期待がかかる子供もプレッシャーで潰されるだろうが、私はかえって期待されたかった。将来の夢を話しても、お前には無理だろうと鼻で笑われるようなのは辛かった(実際は鼻で笑われていたのではなく、「期待していない」ので積極的に応援されなかったという程度のことだがそのように私には感ぜられた)。

しかしやはり高校生のときに二次障害を発症したのでますます私への期待値は下がった。それでもまぁまぁいい大学に合格してしまったので、私に対する家族の反応(というか、主に祖母)は「いやそんないいとこいってもどうせ虚弱なお前には無理なんだから心配だわー」みたいな感じだった。それでも私は、うつ状態の中で掴んだ「えらい自分」への切符を大事にしたいと思った。

法学部に進学するのに失敗し(弁護士という「えらい私」をめざしていた)、文学部に進んだ私が目指した「えらい私」は、大学教員になることだった。選んだ学問に励みはしたが、その学問のために励むのではなく、その学問を修めて「えらくなる自分」のために励んだ。つまり、私にとってその学問は目的ではなく手段だった。大学院進学までそれに気がつかず、青春を棒に振っていく。もっと、「等身大の自分のために」生きていればと悔やまれる。

大学院時代にオットに出会った。この出会いは私の人生に欠けてはならないものなので、これだけはこの道を選択してよかったと胸を張って言える。それだけは。だから私はすべての経緯を否定する気はない。それでも納得できていない部分が大きい。いまオットにしがみついている私自身に納得はいくが、それまでの経緯に納得していない。それがこの正月はっきりわかったのだ。

今回みんなに将来を手放しで期待されているいとこが久々に家にきて、当時のセンター試験(これはひどい有様だった、センターの勉強に集中できていなかったので不本意な点数に終わっている)の得点率を聞かれて答えに窮した。オットのほうが圧倒的に点数が高いので、オットに話を振ったらみんな「やっぱり優秀だなー」「すごいなー」と言う。そうだ、私のオットは優秀なのだ。私のように自分の人生を掴みとれなかった奴と違って、私のなりたかった「えらい職業」に就いて、しかもそれが自分のやりたいことである人間なのだ。

私はこのブログにも書いたが、結婚前はオットへの劣等感でひどい精神状態に陥って、自己嫌悪がもっともひどかった。本当に●にたいと思っていた。自らの境遇を恨んでへんな逆恨みもした。それなのに私を受け入れてくれている。私は幸せ者だとつくづく思うのである。

私はいまでも自分のやりたいことがよくわからない。今の私の「なりたい自分」はあるのだが、それだって虚像かもしれないし、本当になったとしたら取り返しのつかないようなものだ。それは母になるということなのだ(自分でも意外だと感じる)。自分のために生きるのをいい加減やめたい。だれかのために生きたい。オットのために生きるのは無理だった。それはなぜかというと、オットは絶対的な強者なので、私の方が彼にぶら下がって生きているからだ。

しかし取り返しがつかない。私のような辛酸をなめるような人生を送るのであれば生まれない方が幸せだ。私と違う人格を持つのだからいずれは私のもとを巣立つ人間だ。「毒親」になってはいけない。だから考えあぐねている。発達の遺伝も心配だ。悪い方向に遺伝すれば、生きるのが苦しくなるかもしれない。私はそれ以上にその子にとって生きやすい育て方をしてあげたいと思うが、人為には限界がある。

あぁここまで書いたらずいぶん気持ちが整理できた。私は子を持たない方がいい部類だろうなと強く意識している。また「そうなりたい自分」という虚像に向かっているだけなのかもしれない。

私は私の人生を掴んでいるのだろうか?人生という箱舟に漫然と載っているだけではないか……常に懐疑的になってしまう、そんな年頃なのかもしれない。