生きている意味をことごとく粉砕されて

こないだから時々「子どもを産めたらいいのに」みたいなことを書いているが、私は「この世は地獄だ」と感じている。生きていて愉快であれば、大半の人は生死が一体であることを忘れているように思う。しかし生きることは死へのプロセスと同じだ。

私はセロトニンが少ないらしく、幼い頃から「死」がいずれ迫り来ることから目を反らせたことなどほとんどなかった。以前「森田療法」を学び、死への恐怖が強まっていくメカニズムが臓腑に落ちた。それからしばらくは死への恐怖は落ち着いていた。

私は毎年冬になると、体調を崩す。今日は塾のバイトがあるまで、暗くなるまで寝ていた。眠くて仕方がない。起きていられない。この傾向は北国に来たので一段とひどくなっており、私の生命力が弱いということを痛感させられる。今日はたかだか2時間程度中学生の勉強を見ながら、ボンヤリと空虚を感じた。

仕事が終わったあと、帰り道にさきほどまで感じていた空虚の正体がなんとなくわかってきた。私は何のために働いているのだろう。私は夫に養われている。発達障害の易疲労感があるために普通の人の10分の1も働くことができない。それでも現在一応、すこしのお金を稼いでいる。自分が穀潰しであることが嫌だからだ。むなしい自己肯定感のためだ。

他方、一般に人は何のために働くかというと、将来の幸せを積み上げるためなのだろう。人によっては明日のパンにも困るので必死に働いている場合もある。どちらにせよ、人は明日以降の自分(とその家族)のために働いている。

私はというと、こんなに体調が悪くて、こんなに体が虚弱で、いったいいつまで生きていられるのだろう。こんな身の上で、明日の私のパンなど考えられない。いつまで生きていられるのだろう。私は今日、明日のパンを稼いでも、明日死ぬかもしれないような気がする。

私は子どもを産みたいと思っているが、それはなぜなのだろう。こんなに嫌な世の中に産み落とされる私の子はまた、人生に苦しむかもしれない。母がこのありさまでは普通の人よりその可能性は高いだろう。それなのになぜか。もしかすると、いつ切れるかもわからない私の生を、私の半分を受け継ぐ子どもという形で少しでも永続させたいという欲求があるのかもしれない。

まだこの世に形もない命は、「生まれてきたい」「生まれたくない」と主張することはできない。私が生まれる前にそれを聞かれたら、なんと答えただろうか。まだ人生を生きていないから、好奇心で「生まれたい」と言っていたかもしれない。20数年もすれば、こんなに絶望の人生を送るようになることも識らずに。

子が生まれるということは、すべて親のエゴだ。親が勝手に「この子は生まれたいと思っているに違いない」と決めつけてこの世に産み落とす。しかしそのあとその子がどのように生きるようになるかは、神のみぞ知る問題だろう。私が生まれた時、親は私がこんな暗澹とした青年期を送るとは思っていなかっただろうし、私自身も自分に発達障害がありこんなに虚弱だなんて知らず、ただボーッと生きていただけだった。それが大人に近づくにつれて、ボーッとすることは許されなくなった。自分の無能に気がつき、自分の体のいうことの聞かなさを知り、周りの人が優秀なので劣等感で死にたくなった。

私はもうボロボロだ。いったいいつまで、私は生きているのだろう。