久々にログインできたことに驚き

こんばんは、こんにちは、おはようございます。キイロネズミはログインできました。以前の更新からとうとう一年以上が経過していたのですね。この歳になると、ものすごく早く時が過ぎ去るのですね。

私は仙台でとくに代わり映えのない日々を過ごしています。ちょっと仕事をして、できるときに家事をして、調子を崩して寝込む。これを繰り返している。コロナウイルスが流行ってからは引きこもりの度合いが大きくなったけどね……。不要不急の外出をしなくなったので、レジャーにも行けなくなりました。レジャーは確かに不要不急ですけど、心にとっては必要なことなんですけどね。このコロナ禍において、うつのひとは間違いなく増えただろうと思います。自殺をする人々も増えているそうです。もともと生きるのがつらい世間ですから、コロナが引き金をひいただけで、自死を選んだ方々はもともと厭世観をもっていたのかもしません。死人に口無しですから、残された私たちがなにを思っても、本人たちにしか真相はわからないですがね。とにかく、安らかに。

 

さて、最近、「反出生主義」にハマっています。このブログを読んでくださる方の中にはご存知の方も多いかも。詳しくはググっていただく方がいいのですが、「この世には幸福より苦痛の方が圧倒的に多いので、生まれない方がいい。幸福の欠如より、不幸の欠如の方が重要だ。生まれてこなければ幸福がないかわりに不幸はありえない。不幸がないことは何にも勝るのだ」といったような思想です。また、親と子の間の非対称な関係も言われます。「どんな子どもが生まれるか」は親にも予想しきることはできませんが、子どもはそれ以上に、生まれてくる環境を選べません。それどころか、気づいたら存在させられている。親は子どもを作ろう、産もうと思って産むわけですが、子どもは出生の同意をしないういに、勝手に受肉させられるのです。

私は幼い頃から、自分が存在することが怖いと思っていました。物心ついたことから全てが不安で、絶望していたと言っても過言ではありません。さいわい家族はみな優しかったですが、それでも、田舎の古くからあった家ですから、イエ特有の偏りというのはあったのかなと思います。そもそも、近くに古墳群があったりするので、けっこう古い集落だと思われ、血も濃そうです。私が異常に生きづらさをかかえる個体であったことは、いままでの連綿と続いてきた「遺伝子のリレー」がバグったのでしょう。

そういうわけで、私は親を恨んだりすることはありませんが、自分が存在する事はいやだなぁ、と思っています。安楽死制度にアクセスできるようになったら真っ先に志願したいとすら思っています。

基本的に多くのことが絶望なので。

でも、少しだけ希望を抱かずにはいられません。かけらでも希望を抱いていないと、生きていくことはできないと思うからです。つらつらと生きづらさを語ってきたものの、私は積極的に死にたいとは思わないのです。未来への希望が全くない人は、死を選ぶしかないのではないでしょうか。根拠はありませんが、直感的に絶望は私たちを死に誘うと思うのです。

久々のブログにずいぶん辛い話を書いてしまいましたね。でもひさびさに書くので、いま思っていることを新鮮なうちに書いておこうと思いました。

反出生主義という考え方、安楽死のこと(ついでに死刑制度についても……)。生と死のことについて、誰かと静かに語りたいような気持ちがある。